オスプレイ 許さないぞ!オスプレイ 許さないぞ!普天間基地からオスプレイが飛来する伊江島。 沖縄本島中部にある普天間基地です。 玉那覇清仁さんのふるさとは今 普天間基地の中です。 玉那覇さんの集落にアメリカ軍がやって来たのは本島上陸から2日目の事でした。 沖縄戦当時伊江島の人口は およそ3,600人。 現在 普天間基地がある場所には戦前 宜野湾村の14の集落がありました。 玉那覇清仁さんが収容所を出たのは父親を 幼い頃に病気で亡くした 玉那覇さん。
沖縄戦を生き延びた住民が慶良間諸島に収容されている間に伊江島でも 基地建設が進められていました。 支配を手放したり使用を放棄したりする事などアメリカ軍にとっては 沖縄の基地を自由に コントロールできる事が必要だったのです。 講和後 アメリカは 軍用地の地主と契約を結ぼうと動き出します。 多くの地主が契約を拒否する中アメリカは 強行な手段に出ます。 それは 阿波根にとってアメリカ軍と闘うための武器でした。 1954年11月24日島に来たアメリカ軍将校 シャープ少佐とのやり取りを記録しています。
村議会に届いたアメリカ軍の文書です。 「演習地は アメリカの軍隊がその任務を果たすために長嶺朝盛さんは 土地収用の最後通告の場にいました。 アメリカ兵が 並里清二さんの家の畑にくいを打ち込みました。 阿波根は 並里老人がアメリカ兵に胸部を殴打される様を「何で この畑を取るの」と言って「畑を荒らさないでくれ。 阿波根が 最初に撮ったのはアメリカ軍によって破壊された家々の跡でした。 平安山さんたちは武装したアメリカ兵と向き合う覚悟を固めていました。
初めは軍用地 あるいは 沖縄全体買い取られるんじゃないかと。 アメリカからプライス調査団が訪れます。 土地の所有権そのものを失うのではないかという危機感は伊江島の阿波根らの闘いともつながり沖縄全土に広がっていきました。 戦争準備に反対し米国の沖縄政策に反対しその反省を強く渇望するからであります」。 その後 沖縄のアメリカ軍基地は更に拡大していく事になります。 アメリカ軍は 本土に駐留していた海兵隊の撤退を決定します。
1965年 日本への復帰を願う沖縄の人たちに万歳! 万歳! 万歳!沖縄返還を巡る日米の交渉が始まりました。 アメリカ軍の関心は沖縄の基地の存続にありました。 どう違ったんでしょう?どう違うかというとみんな あれだけの事 言えば日本国憲法が 沖縄にも完全に適用されて 日本同様に沖縄の本土復帰後もアメリカ軍の基地として存続が決まった普天間基地。 当時 沖縄復帰対策本部の本部長として 沖縄に派遣されそれでも どうしても 契約は嫌だという人が出てきますよね。