戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 第1回「沖縄」

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オスプレイ 許さないぞ!オスプレイ 許さないぞ!普天間基地からオスプレイが飛来する伊江島。 玉那覇さんの集落にアメリカ軍がやって来たのは本島上陸から2日目の事でした。 アメリカ軍の上陸直前に防衛隊に動員された父は戦後1年がたっても 多くの人々が収容所生活を続けていました。 これは 終戦から2か月1945年10月にアメリカ軍が作成した海外の基地計画です。

アメリカの施政権下に入りました。 玉那覇さんはアメリカが地主たちに提示した賃貸料の額に驚きます。 それは 阿波根にとってアメリカ軍と闘うための武器でした。 アメリカ軍の当局者とも一人の人間として向き合おうとしました。 しかし 私たちも同じ沖縄人でありますから「陳情規定」は 阿波根らがアメリカ軍と交渉する上での決まり事として作ったものです。 村議会に届いたアメリカ軍の文書です。 アメリカ兵が 並里清二さんの家の畑にくいを打ち込みました。 阿波根が 最初に撮ったのはアメリカ軍によって破壊された家々の跡でした。

阿波根昌鴻が集めた資料の中にテント暮らしの中でおばあさんたちが作った琉歌の録音が残されていました。 やがて 乞食行進と呼ばれるようになった その行動は軍用地を巡り沖縄全土に広がった闘い関心が 非常に強いから。 私たちは 母子家庭ですからね母子家庭の時には母親が自分の…幸い 土地があったからね。 アメリカが それまで毎年 支払ってきた賃貸料を一括して支払う事で無期限に軍用地を使用したいと提案してきたのです。 失うのではないかという危機感は伊江島の阿波根らの闘いともつながり沖縄全土に広がっていきました。

その後 沖縄のアメリカ軍基地は更に拡大していく事になります。 東京・立川などアメリカ軍基地の周辺ではアメリカ軍は 本土に駐留していた海兵隊の撤退を決定します。 1960年 普天間飛行場にもアメリカ海兵隊が移駐してきました。 アメリカ軍の関心は沖縄の基地の存続にありました。 しかし 私たちはもし 沖縄を返還しなければ住民の大きな反対を受けて基地の継続使用が難しくなると考えました。 私たちにとって 返還は 基地を縮小するためのものではなく沖縄返還に 合意しました。

訓練中である事を示す赤い旗は降ろされたあとの事で日本政府は 当初 アメリカ兵の発砲は公務時間外だったとし日米地位協定により 裁判権は日本にあると主張しました。 阿波根らは 強く反対しましたがその声が 伊江島全体のものになる事は ありませんでした。 今のままなら基地周辺整備法を利用して医療問題 教育環境整備農業基盤の整備全て あらゆる…。 かつて 阿波根昌鴻と共に闘った人々の中にも軍用地契約を結ぶ人が増えていきました。