Eテレセレクション・アーカイブス「原爆・終戦関連番組2週目」

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♪~明治君主憲法に代わって主権は 国民の手にあると宣言した新しい日本国憲法公布の日11月3日。 昭和20年12月28日に公表された「憲法草案要綱」。 憲法研究会が結成されたのは敗戦から 僅か3か月後の昭和20年11月。 敗戦直後の焼け跡で 日本人が自主的に作り上げた憲法草案。 戦後の再出発にあたって新しい国を どう造っていくか当時 多くの日本人が考えいくつもの憲法草案が作られました。 中でも 大きな注目を集めたのが憲法研究会の「憲法草案要綱」です。

後に憲法研究会に参加する政治評論家の岩淵辰雄。 対応を迫られた幣原内閣は憲法問題調査委員会の設置を決定。 馬場は 持論の国際平和主義を展開し敗戦から2か月 言論活動を開始した文化人たちが高野は 戦前 民間の研究所で統計学の立場から積極的に発言を続けていた鈴木安蔵も出席していた。 そして 新憲法制定に執念を燃やす岩淵辰雄。 古関さんは戦後の憲法制定過程をGHQと日本政府の関係からだけではなくて民間草案の作成ですとか国際的な政治情勢など新たな視点から読み解く研究をされています。

室伏高信は 国民が主権者として政治に参加する事は人間の本質に根ざした普遍的真理であるという問題は 天皇の位置づけだった。 明治憲法の下で 天皇は国家の統治権を全て掌握し軍部が利用したためだと考えていた。 大権を持たない天皇を憲法上 どう表現するのか。 社会党は「憲法の全面改正」を掲げ天皇と国民が協同で統治するという案を 後に公表する。 「天皇制打倒」と「人民共和国政府の樹立」を掲げた。

そういう考えを なくしてしまうあるいは 明治憲法のとおりそれは どちらもダメだという事で「国家的儀礼を司る」というような規定で どうかという国民感情を考慮に入れた規定という事が 言えると思います。 そういう点ではそういう案を なぜ作ったのかという事ですけれどもこの案を作った中心的な人は鈴木安蔵という方で自由民権期の憲法の研究をずっと してこられました。 吉野は「憲法制定史を研究する者が絶無と言ってもいい」「読んでほしい資料がある」と言って鈴木を励ました。

植木枝盛によって代表される憲法草案を見れば我々が受けた 大学での憲法講義なんかには 触れてないようなそれ以後 明治憲法体制で若干の抵抗は ありましたが祖先たちが作ったレベルにまでとうとう いかないんだな。 ですから 鈴木が最初に作った憲法研究会案の中には実は こういう権利というのは植木枝盛などを中心にした見る事ができると思います。 そうしますと 吉野作造との出会いそれから植木枝盛明治初期から 長い地下水脈のような流れが憲法研究会の草案が新聞の一面に掲載された。

まさにその点は日本国憲法の現状においても問題なんですけれども憲法を どうやって守らせるかがポイントだと ラウエルは言っています。 ラウエルの報告は 上司の民政局長ホイットニー准将が承認し彼の名前で マッカーサー直属の参謀総長に提出された。 2月13日 ホイットニー民政局長らは外務大臣官邸を訪れ松本烝治と 吉田 茂ら日本側にGHQ案を提示した。 受け入れを決めた日本政府はGHQと折衝翻訳と条文の推敲の末 3月6日「憲法改正草案要綱」を発表した。