ETV特集「戦場で書く~作家・火野葦平の戦争〜」

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この番組のまとめ

♪~記したのは火野葦平である。 まだ火野葦平若かったんでしょうね。 日中戦争に一兵卒として従軍した火野に運命を変える知らせがもたらされた。 火野が向かったのは フィリピンだった。 火野葦平が戦場で書いた20冊の従軍手帳をもとに作家と戦争の問題に迫る。 火野葦平は 1906年 明治39年この町に生まれた。 火野の実家は石炭荷役を請け負う…父 金五郎が裸一貫から築き上げた。 火野は文学を志し早稲田大学に入学。 火野は 大型機械の導入で職を失おうとしていた若松にいる人々が好きだったんだろうなと思います。

文藝春秋社社長で芥川賞の創設者…火野の受賞を大いに歓迎した。 火野の芥川賞受賞にとりわけ注目したのは陸軍の報道部だった。 ドイツ国防軍は 小説家や カメラマンを動員した PK部隊を組織し雑誌「中央公論」に掲載された「生きている兵隊」。 当時 中国国民党を率いていた介石は日本軍の非人道的行為を世界に訴えようとしていた。 差押を免れたる一部のものが支那側の入手する所となり飜譯して反日 抗日の宣傳に報道部の馬淵は 南京を巡って展開された中国側の宣伝に対抗していく必要性を痛感していた。

そういう意味では 「麦と兵隊」を読んで 軍の担当官が「ありがとう」と言ったというエピソードが ありますけれどもどこか日常生活の延長のようにも見えるそういった兵士の像というのが火野のテクストの中には多く書かれてるんじゃないかと思います。 日中戦争の実相を 日本の視点から国際社会に伝える「土と兵隊」は 陸軍の全面協力の下映画化され撮影には 現地の部隊が参加した。 軍部と共に マスメディアを統制していた機関…20人を超える著名作家が中国へ派遣された。

アメリカの植民地だった フィリピンには尾崎士郎や石坂洋次郎などと共に火野が送り込まれた。 日本軍は開戦直後に フィリピンに上陸。 フィリピン人への宣伝の目的が記されている。 フィリピンで 報道宣伝の先頭に立っていたのが人見潤介さんだった。 まあ とにかく フィリピンの民衆の気持ちを安定せないかんから。 フィリピン人向けの英語雑誌「新世紀」を創刊。 これは… 昭和17年の日記でフィリピン戦線にいた時ですから。 フィリピンの戦場でも 火野は地元の人々の姿を手帳に書き残していた。

フィリピン近現代史の第一人者リカルド・ホセ教授は日本軍は バターン半島でアメリカ軍との戦いに勝利した。 こうやって日本語を教わったんですね?火野も時には 数日間にわたって収容所に泊まり込み捕虜教育に当たった。 精神教育が終わると 日本軍は捕虜を解放し 故郷へと帰した。 この年の11月には第一回 大東亜文学者大会が開かれた。 1944年第三回の大東亜文学者大会が開かれたのは 中国南京だった。

例えば 火野葦平にせよあるいは 菊池 寛にせよ戦争中に 戦争に協力をする戦争を賛美する人々を戦争に駆り立てていくそういうような役割を果たしたではないかという形で菊池 寛も 火野葦平も非常に厳しくそういう観点から糾弾をされていきます。 火野葦平は占領軍による尋問を受ける。 現在 アフガニスタンで医療や 農業用水路の建設など幅広い人道的活動を続けている。 ある時は残虐な事をし ある時は新中国では 対日協力者とされ労働改造所で過酷な労働を強いられた。