♪~この 周囲7kmの小さな島にはハンセン病の療養所が置かれている。 長い間 ハンセン病の元患者の人たちが隔離されてきた。 ♪「兎追いし かの山」療養所の入所者のために歌を歌った。 ハンセン病の元患者たちの人生。 入所者の方々に 大学合格の報告をしたいと思っていた。 入所者の人たちと交流をする中で理解していった。 昔は 入所者が妊娠すると中絶を強制されていた。 長年 偏見にさらされた入所者たちは今もふるさとに帰れずにいます。 僕は 小学校時代入所者たちの心に秘めた思いをたくさん聞かせてもらった。
健康第一にな。 健康第一にせないかん。 今の僕と同じ年頃で「人生の谷底に放り込まれた」という山本さん。 入所者たちの多くはふるさとの家族を守るために別の名前を使って 暮らしている。 「山本隆久」という名前も島だけの名前だ。 自分の名前を捨てて 生きないかんような境遇に落ちた。 その山本さんは 大島の土を使って作品を作っている。 僕は 小学生の頃そんな山本さんを見て「好き嫌いを超える」。 この言葉に もっと深い意味があると 僕が知ったのは小学校を卒業し島を出る直前だった。 大島青松園 105年目の春。
今から およそ30年前 療養所が古い治療棟を取り壊した時僕は 小学生の頃にここに何度も遊びにきていた。 療養所に残された記録の中に患者地帯の一番端 塀のすぐ脇に解剖室の存在が記されています。 ハンセン病の治療法が確立していなかった時代亡くなった ほとんどの入所者が解剖されていました。 当時は 「療養所」とは名ばかりで入所者は 食料の生産や重症患者の看護など「患者作業」と呼ばれる重労働を担わされていた。 解剖台の作業とかをしてた時に去年 使われなくなった入所者の部屋から古い日記帳が見つかりました。
港では 島に戻ってきた女性を大勢の入所者たちが出迎えました。 療養所に暮らす入所者は 81人。 亡くなった入所者たちが眠る納骨堂を 誰が守っていくのか。 亡くなった入所者の方を解剖したあとその遺体を きれいにして納める作業というのがありました。 その入所者の方の作業を行った方に話を聞いたんですが「座棺」というものでしてこんな感じに体を小さくしないと入らない縦の長方形だったんです。