戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 第4回「猪飼野」

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この番組のまとめ

在日コリアンが最も多く住む大阪市生野区。 日本で生活を始めた 在日コリアン。 厳しい差別の中 在日コリアンの教育に取り組んだ日本人教師もいました。 大阪市の東部 平野川に沿って南北に長く広がる地域は戦前 ここに朝鮮半島から渡ってきた人々が暮らすようになりました。 17歳の時朝鮮半島の チェジュ島から大阪にやって来た キム・スニさん。 当時 朝鮮半島は日本の植民地支配の下チェジュ島から 大阪への定期航路が開かれます。 6歳の時 猪飼野の国民学校に入学した パクさん。

「朝鮮半島での大きな暴動と連携して在日コリアン 特に 大阪地区の異端分子が デモを起こし他の民衆争乱を助けるかもしれない」。 GHQは 既に文部省に指示し日本の教育法に沿わない朝鮮人の学校を閉鎖しようとしていました。 1948年4月 学校閉鎖の強制執行に抗議する在日コリアンは神戸と大阪で デモを行います。 4月26日 大阪府庁での抗議集会には在日コリアンの生徒や教師更に一般市民も加わり2万人以上が参加しました。 在日コリアンの子供たちは 強制的に日本の学校へ編入されました。

猪飼野では 日本の学校へ行かない在日コリアンの子供たちが増えていきました。 それまで 公立学校での民族教育は民族学級が中心でしたが大阪市は 在日の生徒だけが通う公立の中学校を新たに設置します。 猪飼野の近くに開校した大阪市立 西今里中学校です。 朝鮮人の学校が閉鎖されたあと日本の小学校に編入された…卒業後西今里中学校へ進学しました。 西今里中学校では日本人と 在日コリアンの教師が共に教えていました。 在日コリアンが多い公立学校に対し教師の定員や予算など特別な配慮をするよう申し入れたのです。

キム・イッテさんは「在日本大韓民国居留民団」北朝鮮への帰国運動は 1959年から25年間にわたって続けられ9万人余りの人々が日本を後にしました。 在日コリアンの「協定永住権」が認められ猪飼野にある韓国大阪教会。 キム・ヨンヘさんと同じ学校に勤めていた日本人教師の…在日の親を キムさんと共に訪ね女の人が キム先生にな…反応は 冷ややかでした。 同じ頃 大阪の中学校で在日コリアンの教育に向き合っていた人がいました。