ビキニ水爆実験 チェルノブイリ原発事故世界の核実験や核事故の現場に立ってきました。 2011年3月 福島原発事故が起きると 岡野さんは現地に入り独自に開発した測定器で放射能汚染を調査しました。 3年前 科学者たちと共に放射能汚染地帯に入った私たちはそこで 生活を根こそぎ奪われた人々に出会いました。 どうして その…自分の財産を手放したり原発事故から3年放射能汚染は どう変化したのか。 それらは 放射線測定器に接続していて道を走りながら 映像と位置放射線量を記録します。
私たちが赤宇木の集会所で出会った人々はその後 ちりぢりとなって各地の仮設住宅に入居していますだから もう2年だねってうちの人と言ってたの。 岩倉さんとは 赤宇木集会所で出会って以来のつきあいです。 赤宇木集会所の隣の体育館にいた夫婦も 忘れられません田代澄男さんとスミ子さんです。 スミ子さんは足が不自由でポータブルトイレを使っており集会所の皆とは離れてこの場所にいました夫妻は この仮設に入ってから2度部屋を替えてもらいました。
木幡さんは福島第一原発が出来るとそこで 配管工として働くようになりました。 原発事故後 小丸の住民の多くが避難を開始したのは 3月15日。 帰りに 一人一人のポケット線量計を確認したところ木幡さんたち小丸の人たちの数値だけが突出していました。 放射線量が高すぎて スペクトルが正しく出ない事もありました。 小丸の汚染地図です。 日本の土壌の場合だと基本的にはセシウムを しっかり吸着するといわれてましてその土壌が動く事によってセシウムも一緒に移動するんだろうと。
やはり 子供たちが全部では ないんですけどデータを自動収集できるようなもので取り組みをしないと地域の汚染状況は把握できないんじゃないかと。 話し合いの場所となったのは南相馬の中でも放射線量が比較的高い地域です。 競走馬の育成牧場を経営する篠木さんは全村避難のあとも村に残っていました。 篠木さんは 福島市の外れに40ヘクタールの山野を買い肉牛を育成する牧場を息子と一緒に切り開こうとしていました。
牛の模様のトラックで渡辺さんが牛の世話をしている小丸の牧場に やって来たのは「家畜と農地の管理研究会」のメンバーです。 岩手大学農学部の岡田啓司さんです。 牛の被ばく線量を計算するため牧場の72か所で 空間線量を測定し地図に落としていきます。 牧場主の柴 開一さんも渡辺さんと同様政府が指示する殺処分を拒否してきました。 国の方針によって これまでに殺処分された牛の数は尾村で生まれたトライバルが当初の予定より2か月遅れでデビュー戦を迎えました。 篠木さんも牧場建設の仕事を休んで13番 トライバル。
毎時4マイクロシーベルトを超えていました福島市などに暮らす親たちは子供を守る手だてを打つよう国に求めていました当時 その先頭に立っていた一人中手聖一さんです。 事故発生から2週間後に日子さんと子供たちは岡山県に避難しました避難から 1年3か月後家族は 福島に戻らず北海道で合流しましたやっぱ 子供がいなかったら 多分私は避難もなかった話ですし生活再建も しなきゃなんないしなんとかして子供たちをね育てていかなきゃなんないし。 北海道で 中手夫妻は障害がある人の訪問介護事業を始めましたお邪魔します。
事故から3か月後には園庭の表土の剥ぎ取りが行われ放射線量は8割程度 減少しました更に 汚染されたマットの除去などは国の除染の対象外だったため子供たちの給食に使う食材は全ての品目のサンプル調査を毎日 行います出荷基準より10倍ほど厳しい基準で調べ特に 子供の施設としてはねそこは譲れないものとして自然と触れ合う感性を養ってあげたい」。