新世代が解く!ニッポンのジレンマ「“救国”の大学論2014」

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この番組のまとめ

去年9月に放送された「ニッポンのジレンマ ”救国”の大学論」は大きな反響を呼んだ。 今 日本の大学教育改革というふうになった時には本当に さまざまな事が議論されていて例えば インターンシップを正式科目にした方がいいとかですねあるいは 大学の入試を改革した方がいいとかですね本当に いろんな事が議論されていると思いますがそういう改革をした時にどれぐらいの効果が期待できるのかという事をやはり データを用いて 定量的にきちんと分析した上で判断をしなければいけないだろうと。

大学の役割自体について 今日ディスカッションがあるとは思うんですけれどもざっくり言うと何らかの知識を習得し何らかの知的生産活動を行うトレーニングをできる場だと思っているんですね。 その知的生産物として論文以外で何が大学で トレーニングとして教育プログラムを提供できるのかというところは皆さんと是非 議論したいなと思って 今日は来ました。

それは戦前旧制高校と帝国大学の時代。 今はいかにも日本的なオヤジだなと一般国民みんな 思ってるかもしれないですけれども彼は やっぱり旧制高校から帝国大学に行った人だから彼の回顧録を読むと 戦争の末期に徴兵されるわけですね。 疑似的な ヨーロッパの大学古典があり 教養があるそれをベースとして ヒューマニズムを育成するという大学を多分まあ 浦安市にディズニーシーが建っているような感じでしょう。

そういった異なった コンテクストの人々の間で自分のやっている事の意味を相手のコンテクストに翻訳したり相手のコンテクストを受け取って自分も考え直したりするある種コラボレートする能力というのが大学が一番与えないといけない教養というかそれこそ基礎力というところになるんじゃないかというのが自分の考え方ですね。

多分 先ほどまでのある意味 最初は型にはめて基礎をカリキュラムで強制する事が必要じゃないかというのは全て一回徹底的に知り尽くすから盲点が見えてくるんじゃないかという発想じゃないかと思います。 僕は 大学を卒業して外資の アメリカの証券会社のエコノミストになったんですよ。 僕 大学1年の時 ひたすらドキュメンタリーばっかり撮っててほとんど 大学行かなかったんですよ 授業。

日本は ヨーロッパみたいに20代のうちは大学行ったりとか普通に会社員になったりとかって往復運動できる国ならいいけどやっぱり みんな どうしても高校卒業して大学入って 就職ってルートがもう あるじゃないですか。 忙しいですよ!未来の大学っていうのは 非常に比喩的な言い方になりますけど甲殻動物から 脊椎動物に変わっていくという事が結構 きれいに分かれてる。 だけど 80年代後半から日本社会が経験してきたのはだから 何が必要かというと大学に骨を通す事。

でも 宗教を理解しないで他の国へ行くって事はそれが 二十歳ぐらいになってようやく考え始めて一応 ギリギリ 教育は間に合って抵抗感なく行けたからよかったものの多分 社会人になって25歳とかで「グローバル人材になるためにこの本 読んでくれ」なんて言われたって 絶対無理ですよね。

大学生 上位 何%ぐらいができればいいんですかね?今 難しいのは 大学って もはや同世代人口の半分が行く時代なわけじゃないですか。 例えば 昔みたいに大学生が同世代人口の10%しか行かない時代だったら自然に みんな グローバル時代になっていたと思うんです。 企業の方は もっとそれが鮮明に出ていてあんまり 多分評価基準になっていないから例えば 大阪大学の松繁先生の研究なんかだとお話の中で 一番面白かったのがすごく選抜されて… 難関大学に行ったやつほど 入ったら遊ぶという事ですよね。

それならそれでとりあえず超つまらなくてもいいから受験勉強を くぐり抜けてあるいは 就活をくぐり抜けられるような人材であればあとは どうでもいいですと企業側が思っているのであれば大学が何を努力しても 結局それは変わらないんじゃないのかなという気持ちも私なんかは ありますね。 ヨーロッパだったら大学卒業したあとにフラフラする期間を今って大学ぐらいしかフラフラできる期間がなかったのに授業時間数 増やしたりとかすごい厳しくなってますよね。

学力だけで測れないようなものもやっぱり見ましょうという事がAO入試の目的なんだろうと思っていて少なくとも SFCを含む いくつかの選抜性の高い大学ではAO入試の入学者は 入ったあとのパフォーマンスが非常に高いって事が統計的に明らかになっていてその意味では そこは成功してるというふうに 言っていいんだろうと思うんですがここからが問題で 実はAO入試が成功している大学っていうのは日本全体で見るとそんなに多くないと思います。

試験の時点で例えば あらかじめドイツ人 呼んでこれるかとかあるいは 通信していいですよっていう試験をやった時に「俺 解いてやるよ」っていう友達が何人いるかっていうのは明確に多分 試験を受ける前から育った文化的な環境とかハビトゥスとか 文化資本とか階層差とかいうもので決まってしまうんだろうと思うんですよね。

例えば 長崎がルーツで勉強されているのが何か リンクした時っていう実体験ってあります?そういうふうに思われがちなんですけどもでも本当に大事なのって 社会的にこれから どういった課題がどういう生活をしてるのかどういう課題を持ってるのかどういう事を大事に 日々過ごしてるのかっていうのを自分事として分かってるのはすごく私にとっては自分の今の仕事の パフォーマンスを高めるのに役立ってますね。

そこの中で大学って どう変わっていけるのかって事は3つあって1つは自分自身を振り返っても成功体験 失敗体験を究極にできた事というのが すごくあって例えば三日三晩寝ないでそれこそ ゼミの発表でOB OGさんの前で発表したんですよ。 あれだけ勉強したけど「好き」というのには勝てないって僕は大学で教わったのでいくら オンライン教育ができてもいくら スキルの体系ができてもカリキュラムができても 人間性が鍛えられる場所じゃなければ大学は全く意味がないと思います。

大学って場所は こういう人材をつくるって ミッションがあってそこに向かってちゃんと人員を育てていった方がいいのかそのミッションが一つである必要は全くないと思いますけれども社会からの要請という事は 常に意識しないといけないと思います。 その時に私はもっと今の大学教員の方が学生と コミットメントを取れるような時間的な精神的な余裕を持てる仕組みにするっていう事はすごい大事な事なんじゃないかと思うんですね。

そういう知的飢餓感に飢えてる人というのは是非 大学をこれからも活用してほしいですし逆に大学にいる側からすると知的飢餓感を持った圧倒的に賢い若い世代が来るものに対してカウンターパートとして圧倒的に知性的な事を言い続けられない教員はいる意味がないと思います。