ETV特集「発見!謎の金銅製馬具~古代日本と朝鮮半島の交流史〜」

戻る
【スポンサーリンク】
00:08:52▶

この番組のまとめ

かつて そこには現代からは想像できないほど東アジアの中で隣り合う日本と朝鮮半島。 6世紀末から7世紀にかけて海峡を挟んだ倭国と新羅との関係は最悪でした。 8世紀に成立した「日本書紀」はこの 新羅への派兵計画をこう記しています。 「来目皇子が筑紫の地に新羅を攻撃する軍の将軍として赴いた」。 それは 倭国が鉄の供給を頼っていた朝鮮半島南部の伽耶を 新羅が併合してしまったからです。 来目皇子の大軍が新羅をにらんだ久米地区から逆L字形の長さ5.3m 幅2.3mの穴。 朝鮮半島新羅で見られる技術です。

九州の首長たちは5世紀前半代から日本列島全体に…例えば 山陰 北陸あるいは 瀬戸内海両岸に九州の豪族を味方につける事だったのでしょうか?その豪族とは 一体どんな人物だったのでしょうか?ここ 北部九州の人々は弥生時代以来 朝鮮半島と交流し氏子たちは 海上交通にたけた海の民の子孫です。

今だったらもう 日本の政府に反して韓国と結んでるような感じなので今は とてもありえない事ですが負けて亡くなったはずの磐井が100m以上の大前方後円墳に葬られてるんですよね。 積み上げて玄門を構成するんですけど…石室の壁に ベンガラという鮮やかな赤い塗料が塗られている点も北部九州の古墳と共通しています。 形が はっきり分からなかった遺跡の中に日本の前方後円墳と極めて よく似たものがでは なぜ 朝鮮半島に前方後円墳が生まれたのか?大きく 2つの説に分かれます。

「任那日本府」の問題というものがありましてこれは 日韓で歴史の古代史の議論をする時にはほんとに これは もう喉の奥に刺さった骨のようなものでですね…。 「任那日本府」は「日本書紀」に記されています。 「日本書紀」の資料批判も進み任那日本府は現地に一時的に滞在した倭人の集団にすぎないなどさまざまな説が主張されていますが今も 論争は続いています。 任那日本府というのは「日本書紀」に書かれてるそのとおり考えたら4世紀後半から成立するんです。