ミュージック・ポートレイト「加山雄三×黒柳徹子 第1夜」

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この番組のまとめ

エンターテインメントの世界で半世紀以上 活躍する2人のレジェンド。 で 母が音楽学校の生徒で。 徹子さんの父 守綱さんは若くから活躍していたバイオリニストでした。 母の朝さんは音楽学校の声楽科に通う学生。 音楽の道を歩んだ2人がコンサート会場で出会います。 昭和を代表する二枚目俳優です。 音楽好きだった父の聴くクラシックやジャズの音色に囲まれてそうだね やっぱりね。 加山さんはピアノやスキー 水泳を楽しむ音楽とスポーツが大好きな少年に成長します。

「関東地区 関東地区警戒警報発令」って。 警戒警報は だけど空襲警報っていったらみんな 防空ごうに入る。 でね ラジオで言ってるのにサイレンも鳴ってるのに隣組のおじさんの人でバケツたたいて「空襲警報」って叫ぶおじさんがいてね。 私の父はねシベリアの捕虜になったんですけど運よくね 何かバイオリンが弾けるという事が分かったらねソビエトから すぐバイオリンが支給されて捕虜収容所 全部をバイオリン弾いて慰問するようにって言われたんですって。

教会の副牧師に片思いした徹子さんは週4回も通ってオルガンを弾きました。 とにかく その副牧師と会いたくて私はね オルガン弾いてた訳。 でも 私 カマキリっていうのがあんなね 綿みたいなきれいな フワフワのものだって知らなかったの。 それが 今の「I Don’t HurtAnymore」っていうのをね弾いて 歌ったの。 ♪「I don’t hurt anymore」って。 それが 最初のギターとの出会いカントリーミュージックとの出会い。

カントリー・クロップスってね。 クロップスって 収穫物。 「Jambalaya」とか。 ♪「Goodーbye Joe」ってやってたらね…。 ♪「ラララリ~ン ジャララ〜 ラ〜ラリン」♪「ララリ~ン ラララ〜」なんつってね。 ♪「フェフェフェ~ン フェフェフェ〜ンミヒョマヒョ〜」そうそう。 ギター 仲間 そして 音楽は徹子さんはその新しいテレビの世界に19歳で飛び込みます。 NHKの俳優養成所に入ったのです。 映画が主流の時代テレビ女優という全く新しい存在への挑戦。

これをきっかけに上品で かつ 親しみやすい徹子さんの魅力が認められテレビの仕事も増えていきます。 そして 昭和36年後に テレビ界の伝説となる番組が誕生します。 当時 ほとんど無名だった若いキャストによる歌とコメディーが 視聴者を魅了。 あのねすごい おかしかったんだけど北島三郎さんが ゲストでいらしてね。 ディレクターが上にいるだけで。 ディレクターに相談もしないで。

この曲で シンガーソングライター 加山雄三が誕生しました。 これは 自分でね多重録音って事をねまあ 一番最初に日本でやったのは僕だと思うんですよ。 うちのおやじがねワイヤーレコーダーってテープレコーダーのもう一つ前にね録音装置で髪の毛みたいな針金に録音するっていう機械だったのね。 で 今度は ピアノも入れてギターも入れてって一人でやると多重録音ってなる。 それで 出来上がった曲 これ詞つけちゃおうかなとか言って自分で詞をつけて歌ったのが残っててそのまま ウクレレで弾いたんですよ。