戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第1回

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この番組のまとめ

武谷三男は広島を訪ね 原子力の平和利用の在り方を考えました。 占領下 日本の原子力研究は禁じられる事になりました。 武谷は 婦人雑誌などで 原子力の平和利用を訴えます。 昭和27年 日本は独立を回復し原子力研究の制限はなくなりました。 武谷の言う「公開」とは原子力研究の一切は公表すべきというものです。 アメリカも原子力の平和利用を てこに西側陣営の結束を呼びかけたのです。 3か月後の昭和29年3月超党派の議員たちが戦後の復興には 原子力の平和利用が必要だと主張していました。

アメリカは ビキニ事件の被害に対してアメリカは 西側の友好国と原子力協定を結びソビエトに対抗しようとします。 学術会議で 日米原子力協定について 批判をしたのは…中曽根議員と武谷が議論します。 学術会議での議論から2か月後の昭和30年6月日米両政府は 原子力協定の仮調印を行います。 湯川が 原子力委員会に出席した時に 書き残していたメモです。 イギリス原子力公社の重役が原発の売り込みに来日し世界最大の原子力発電所として建設中だったコールダーホール原発と同じ型の原子炉でした。

年が明けた…湯川は 原子力委員会からインドに派遣され実験用原子炉の開所式に出席します。 当時 原子炉安全審査専門部会は原発を推進する原子力委員会の中に設置されていました。 当時 伊原義徳さんは 原子力委員会の 安全審査専門部会で安全審査専門部会は坂田たちの意見を一学識経験者の個人的意見としてコールダーホール原発は安全と結論づけました。 昭和40年 茨城県東海村でコールダーホール改良型原子炉が臨界を迎え1960年代 大陸間弾道弾などアメリカとソビエトの核兵器開発競争が激しさを増していました。