武谷三男は広島を訪ね 原子力の平和利用の在り方を考えました。 第1回は 戦後日本の原子力政策と向き合った科学者たちをアメリカが広島に原爆を投下。 一方 京都大学で理論物理学を研究していた湯川秀樹もまた荒勝文策のもとで原爆研究に関わりました。 占領下 日本の原子力研究は禁じられる事になりました。 武谷は 婦人雑誌などで 原子力の平和利用を訴えます。 昭和27年 日本は独立を回復し原子力研究の制限はなくなりました。 武谷の言う「公開」とは原子力研究の一切は公表すべきというものです。
原子力の研究開発が どんな条件のもとで行われるべきか原子力予算が成立した直後学術会議は声明を発表しました。 アメリカは 西側の友好国と原子力協定を結び学術会議で 日米原子力協定について 批判をしたのは…「この双務協定の内容につきましては機密保全の問題もございます」。 帰国した中曽根氏たちは日米原子力協定の国会承認を急ぐとともに学術会議の三原則の要望を受け入れ原子力基本法案を国会に上程します。
世界最大の原子力発電所として建設中だった原子力委員会の事務局に詰めていた伊原さんは湯川と正力の溝が深まっていく様子を かいま見ていました。 年が明けた…湯川は 原子力委員会からインドに派遣され3月6日 上京の予定でしたが体調を崩し 自宅で療養します。 当時 原子炉安全審査専門部会は原発を推進する原子力委員会の中に設置されていました。 当時 伊原義徳さんは 原子力委員会の 安全審査専門部会で事務に当たっていました。