現れたのは ロックバンド GLAYのリーダーTAKURO。 うん… 確かに!今後 10年 20年頑張っていこうと思う時にマキタさんから 何か…TAKUROから指名を受けたマキタスポーツは…。 TAKUROがマキタを訪ねたのは新宿の老舗ライブハウス。 ここは BOWYTHE BLUE HEARTS スピッツなど数々のカリスマバンドを輩出してきたライブハウスだ。
こっちは もう 無限大の作曲家を抱えた売れっ子作詞家ですよね。 あれ どっから生まれたものなんですか?中3ぐらいの時に 僕の兄が4つ上の兄がいるんですが兄の友達が カセットで録音した長渕さんのラジオ番組を聞かせてくれてすげえ面白い事やってんだよって言って教えてくれたのが「ギター講座」というコーナーだったんですよ。 「パッヘルベルのカノン」って…確か 昔 音楽の授業で習ったあれですか?では J−POPのヒット曲のコード進行を見てみると…。
GLAYがデビューした 1990年代はビジュアル系バンドの全盛期。 なぜ 自分のキャリアの中に またビジュアル系をやるというのを付け加えたんですか?もう 14年ぐらい前にあの…この基のネタになってるものはまあ ビジュアル系ではないなという事でこれは 結構 いけるかなと思って。
それに比べたら…世の中をある種 ふかんで見てきたマキタさんから見てこの30年間の いわゆるJ−POPの流れっていうのはそれを TAKUROさん風に言えば覚悟という事なんだと思うんですけど…もう 身から何から 全部使えるというか食べられるというか。 GLAYのメンバーは この半年間ここでシングルとアルバムのレコーディングを行った。 1988年 GLAYはTAKUROが別のバンドで ドラムをたたいていた小学校の同級生 TERUを誘って結成した。
そういう事を敏感に感じられる人で自分が悩んでいる事を陰で しっかりとGLAY 12枚目のシングル「HOWEVER」は134万枚を売り上げで 日本人が大好きなものがいっぱい詰まってるんですけどサビの部分に関して言うとクリシェが使われている…。 幸せになるって事が僕にとっては 一番大切な事で音楽やってて幸せじゃないっていうのも おかしい話だし音楽をやるために 幸せを諦めるというのも 変な話なので…じゃあ 子どもができて妻が 人手が足りないという時に「こちとら GLAYだ」と。