日本人は何を考えてきたのか「昭和維新の指導者たち~北一輝と大川周明〜」

戻る
【スポンサーリンク】

この番組のまとめ

日本改造を目指した大川は戦争の時代の思想に迫ります。 北 一輝と 大川周明。 そのころ北 一輝さんや 大川周明さんは「この日本じゃどうしようもないから変えるんだ」と「改造するんだ」と言った。 明治30年 14歳で佐渡中学校に進学します。 明治34年 東京では幸徳秋水が中心となり日本初の社会主義政党社会民主党が結成され階級制度の撤廃などを訴えます。 一方 大川周明は北 一輝よりも3年遅れて明治19年山形県の農村に生まれました。 大川周明の子孫 大川賢明さんを酒田市に訪ねた。

国家や 帝国主義に否定的だった幸徳たちと一線を画しそれに対し 北は 国民と皇室の関係を歴史的に観察し天皇は 国民に近い家族のような存在だとそして 20年余りも 佐渡の中で…。 北一輝を研究している…「すなわち 天皇其者が國民と等しく民主々義の一國民として理想國の國家機關となれるなり」。

インドの独立運動家…当時 イギリスの植民地だったインドで独立運動に身を投じイギリス政府から追われていました。

なぜ 孫文の あの中国の革命にこんなに北 一輝は関心を持つんですか?明治の39年に「国体論及び純正社会主義」という本を出して 発禁になる。 彼がやっていた 「革命評論」というのも どちらかというと中国革命の別動隊というか日本人グループみたいなものですね。 前の「国体論」の時には 要するに普通選挙をやっていけば国民の権利も政治的な権利も認められて自由も認められてくるから武力革命は やらないと。

一方 北 一輝の思想は 陸軍の青年将校たちに 影響を与えます。 青年将校は 北の改造法案をどう受け止めたのか。 陸軍一等主計 磯部浅一磯部の実家は 農家だった。 彼の腹の中に そういうものがふつふつと たぎってるからね…磯部浅一は クーデターへの資金援助を真崎甚三郎 陸軍大将に働きかけ北は 青年将校たちの思いをどう受け止めたのか。 青年将校に理解を示していた真崎甚三郎はその後クーデターとの関与を否定します。 北 一輝は 逮捕され青年将校と共に陸軍軍法会議で裁かれます。

こういう貧しい国民を救うのは誰か?本来的に言うと 天皇であったり重臣であったり議会であったり 財閥であったりするはずなのにも かかわらずこの人々が救ってくれないからそしたら一応 国家体制とすると天皇の軍隊「皇軍」と言われているけれどもしかし 我々は国民の軍隊でありたいと。 しかし それを救わなければ国民の軍隊とは言えないという考え方は青年将校たちは 共有していたと。

大川は日中戦争の拡大に反対します。 昭和13年 大川は アジアとの連帯を担う人材育成に乗り出します。 大川塾では 東南アジアのタイ語や マレー語から親友?つまり ビルマなら ビルマでインドなら インドで?はい。 開戦後間もなく 大川は「米英東亜侵略史」と題する講演をラジオで行います。 12回に渡った この講演は後に本にまとめられ大川は 大東亜共栄圏を理論づける書を大川塾生の 山田 勲さんは昭和19年 塾を卒業後しかし 前線に孤立し多くのインド兵が犠牲となりました。

大川周明さんのアジア主義というのは日本を中心とするあるいは 日本を盟主とするという問題点が あるわけですけどもしかし アジアを開放するアジアを復興させるというそういう思想ですよね。 大川塾の塾生の方々の言葉非常に重いですけれどもう終わったと言われた時の気持ち松本さんは どういうふうに受け取られました?戦前の大川周明さんを中心とするアジア主義というふうに言われる思想ですね。