ニッポン戦後サブカルチャー史2▽60年代新宿カルチャー 大島渚は何を撮ったのか

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この番組のまとめ

サブカルチャーの夜へ ようこそ。 無修正で演劇界の奇才が今宵も 愛と独断による異色のサブカルチャー論を展開する。 サブカルチャーを愛する ジャニーズ個性派俳優の風間俊介。 更に アキバのアイドルプロデューサーにさあ…真夏の夜のお供に刺激的な サブカルチャーは いかが?あっ 先生。 例えばアメリカに ビートニクという潮流が石原慎太郎さんの「太陽の季節」が1956年に 芥川賞をとったという事で。 今は 「唐組」という集団でお芝居やってるんですけど当時は 状況劇場 紅テントですね極めて 60年代的であると…。

映画監督 大島 渚を60年代の寵児へと押し上げた時代の流れ。 急速なテレビの普及に危機感を抱いた映画会社は新機軸を打ち出した。 ルールなど ないかのごとく奔放に生きる若者たちの生態を大島は 当時の製作ノートに新しい映画に挑む「覚悟」をつづっていた。 しかし 映画は 封切り4日後会社の一方的な判断で上映中止となった。 これ以降 大島の映画製作は一層 先鋭化し野心作を 続々発表する。 「この人だったら 映画化してもいいよ」と言ったのが大島 渚だったんです。

僕 大島 渚監督ってもう映像に出てきた 年をめされてそれでも 吼えてるっていう姿がアンダーグラウンドだったんですか?ある 特別な映画好きのものではあったわけですよね。 でも 1960年に松竹の 一番 大監督…大監督 何人もいましたけど小津安二郎という人がいたわけです。 小津安二郎は 有名なのはローアングルで カメラを低く構えてどっしりと カッチリした絵を撮るという人ですよね。 アヴァンギャルドですね。 何か 変に隠してるところが…あんまり アヴァンギャルドな事ができない時代ですよね。

新進気鋭の グラフィックデザイナーとして若者の熱狂的な支持を得ていた。 その後 花園神社境内に紅テントを張り状況劇場の公演を続けてきた。 60年代 唐をはじめ清水邦夫や 蜷川幸雄などそれまでの新劇に反旗を翻す前衛的な演劇人が続々と小劇団を旗揚げ。 そして 唐の本拠地 花園神社からほど近い場所ではあの寺山修司が演劇実験室・天井桟敷ではい カツレツを頂きました。

京都よりも 鎌倉よりもどこよりも 新宿という所でそこに やっぱり西新宿に行くとそういう でっかい建物…都庁とかが あったり逆に ゴールデン街とかみたいな もう昔みたいな ほんとに小さい路地思い出横丁だったりとか歌舞伎町も独特で 日本らしいそういう看板が いっぱいあって。 だから いろんな芸術 映画もアートシアター 新宿文化というのはそれから 紀伊國屋書店もそうだし花園神社での 紅テントもそうだし花園神社に隣接する かつて闇市だった場所 通称 ゴールデン街。

だから 演劇にとっても 新宿はかなり大きな意味があったし文化全体とか それから若者の生態そのものが この中に60年代のある瞬間から 煮えたぎるように ふつふつと 湧いてた。 「新宿」って言われるともう この時のエネルギーではなくて完成された街であってどちらかというと 僕にとってはアンダーグラウンド性は感じないですね。 新宿を虚構と現実 性と暴力が渦巻く街として捉えた映画「新宿泥棒日記」。