西田幾多郎とその弟子 京都学派。 西田幾多郎と京都学派。 私自身 京都大学で学んだので西田幾多郎 京都学派あるいは 哲学の道。 で その後理科系に進みましたので実際 今回 旅に行って西田の足跡を訪ねてみると驚くほど 西田の思考というものが私自身が ずっと考えてきた事つまり「生命とは何か」っていう問題に非常に重なり合ってるという事に気付かされてさあ その西田幾多郎が生み出した 哲学。 西田幾多郎は明治維新から2年後の 1870年新しい時代の産声の中生まれた。
去年の秋哲学者上田閑照さんは京都大学で「西田哲学」についての特別講義を行いました。 西田が 東洋と西洋の哲学をどのようにして西田が目指したのは それまでの主観と客観の対立から出発する西洋哲学を乗り超える事だった。 普通選挙制など政治の民主化を求める三木 清 西谷啓治など多くの哲学者を育て上げていきます。 その瞬間を 西田は「純粋経験」と呼んでいたと私は思う。 西田哲学が生まれる時代への旅。
そういうものをのみ込んだ円というそういうものを 禅では悟りの境地を表すものとして非常に重要視してきたわけですがそういう 西田幾多郎が考えた「無」というものと非常に通じるものが禅でいう 円相の中にはあるという事ですね。 円相というものを見てやっぱり 非常に西田の哲学が私たちに喚起してくれるイメージっていうのはねそれを 哲学の言葉が先取りしてるなと私は感じました。 このあと 西田幾多郎 そしてその弟子の京都学派の人々はどう 時代というものと向き合っていくんでしょうか。
何度も書かれているのが「矛盾的自己同一」。 矛盾的自己同一とは矛盾は矛盾のまま対立は対立のままでしかも全体として同一性を保っているという在り方の事です。 昭和研究会で 三木は欧米の近代文明を超える理念を打ち出そうと主張研究会を リードします。 三木が教えを受けたのが世界的哲学者…言論も 全体主義的な主張が主流となっていきます。 海軍は 陸軍主導で戦線が拡大されていく中高木が 西田に続いて接近を図ったのがその弟子の 京都学派でした。
しかし 東南アジアから南太平洋まで広大な地域を占領した日本軍は…を中心とした西田直系の弟子たちでした。 ただ それは単純な帝国主義戦争でもなければそれへの反発でもなくてある種 共同体あるいは 共栄圏という新しい論理で そこのところが今までとは違うんだ という理屈はつくったと思うんですけれども最終的に 少なくとも海軍の思ってたようなアジア支配を正当化する論理にしかならなかったと。 その要旨をしたためた手紙が西田幾多郎記念哲学館に残されている事が分かりました。 西田幾多郎 佐藤軍務局長殿」と書いてありますね。
戒めなければならないと そういう言葉を語ったというのは非常に危険な事だったと思いますけれども それは西田幾多郎は 哲学者の義務としてそういう事を語ったと思うんです。 嫌々ながら書いた というよりは何か ある種のねもう あとは滅亡しかないというかそういった時に世界的原理という事が非常に大事なのであって他国を帝国主義的に侵略していくそういうような事であっては「これを担うのは 日本以外にはない」というふうな言い切りで終わってますよね。
そういう事が 私たちの未来につながっていくのではないかと自分の言葉を 普遍的なものとしてとどめておくのかでも 西田の弟子たちの中にはもっと積極的に言葉を 時局の中にですね踊らせてしまったというか西田哲学は 今の私たちに何を投げかけているんでしょうか。 そういう人たちの試みと西田幾多郎や 京都学派の哲学者たちと比較する事でそれぞれが持ってる長所あるいは短所 あるいは限界そういうものが見えてくるのではないかと。