反ユダヤ主義は 子供たちが通う学校の教室にも持ち込まれました。 ナチスは ユダヤ人の教師が一度に教えてもよい生徒の数を軍事力の増強を図っていました。 1937年 ナチスは 政治的宣伝映画を作らせるために一切撮影しないよう厳しく命じられました。 広大な たばこ農場きびきびと働く人々そして この国で本当は何が起こっているのかを子供たちは授業で 「ユダヤ人はドイツ人よりも劣るのだ」と教え込まれました。 そうした中で レオノラ・ゴールドシュミットはユダヤ人の子供たちのために 新しい学校を開こうと奮闘していました。
ベルリン郊外に ユダヤ人学校ゴールドシュミット・スクールが開校したのです。 1937年3月 ゴールドシュミット・スクールはケンブリッジ大学の入学試験を受けられる非常に誇らしい事でした。 ベルリンの街で ブライアンはユダヤ人学校の ゴールドシュミット・スクールを訪れています。 アメリカに帰国した ブライアンはドキュメンタリー映画の製作に取りかかりました。
しかし ドイツに対する外交上の制裁はウィーンの街では ユダヤ人への迫害があからさまに行われるようになりました。 ユダヤ人学校 ゴールドシュミット・スクールも被害が心配されました。 ゴールドシュミット先生はすばらしい案を考えつきました。 ゴールドシュミット・スクールは破壊を免れました。 レオノラとエルンストが考えたのはイギリスに ゴールドシュミット・スクールの分校を開く事でした。 2人は ユダヤ人を支援するイギリスの団体に資金援助を求めました。