伊福部昭の世界~「ゴジラ」を生んだ作曲家の軌跡〜

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この番組のまとめ

「ゴジラ」の音楽を生んだ作曲家伊福部 昭。 映画音楽と並び 伊福部が心血を注いだ 舞踊音楽の世界。 全部違っている所にいると 「自分たちは何者なんだ」という事をもう少年時代 伊福部先生の小学生の時ですけど2人の兄と共に札幌で暮らす事になった。 そこで知った 当時最先端の音楽が伊福部の創作意欲に 火をつけた。 自分は どのような音楽を作るべきなのか伊福部は既に明確な目標を持っていた。 伊福部は 日本人を対象とする作曲コンクールがパリで開催される事を知り「日本狂詩曲」で応募する事にした。

伊福部 昭に師事した作曲家和田 薫さん。 伊福部先生のレクイエム フリギア旋法で書かれてる あの伊福部レクイエムが「ゴジラ」の大きな 実はテーマではなかったのかなとは思いますね。 フリギアのメロディで 伊福部はゴジラに襲われた日本人の悲しみを普遍的で人類に共通する巨大な悲しみとして音で表現した。 そして伊福部は 人間によって倒される 怪獣ゴジラもまた悲しみに満ちた存在であると感じていた。 伊福部先生ご自身 自分の音楽をフリギア旋法で書く メロディアスなものは「泣き節」という言葉で表現なさっていた。

伊福部と出会った きっかけは1940年に札幌で行われたアイさんは 当時22歳。 戦後 伊福部と共に上京したアイさんはかつて師事した 江口 宮と再会。 伊福部は 舞踊作品の音楽を手がけるようになった。 伊福部は 踊りの長さ動作の回数など振り付けを一つ一つ確認しながらおよそ1時間の音楽を作り上げた。 伊福部は 地の底から湧き上がる民衆のエネルギーを見事に音楽で表現した。 伊福部さんって ほら日本 日本ていう人でしょ。 伊福部とのコラボレーション作品は日本のモダン・ダンスにおける一つの到達点となったのである。

昭和30年代 映画や舞踊音楽の仕事に追われながら伊福部は アジアの作曲家としてのアイデンティティーを模索していた。 私が中学の1年の時 そのちょっと前かな 生け花 習ってて大晦日の晩になってから花を生け始めて松にね チューリップとか割合 高めのバラとか2つをただ 継ぎ合わせるのではなく真に 東洋の感性に根ざした音楽を作らなければならないと伊福部は 感じていた。 日本の祭り囃子から スタートした伊福部の音楽は1976年 62歳で…自分は 同じ歌を歌い続けて同じ踊りを 踊り続けるだけだと。