46歳で 抜てきされたのは外資系化粧品を扱う日本企業の CEO。 更に 大手コーヒーチェーンの日本企業でもCEOを務め人間関係を鍵に業績を伸ばしました。 はなさん 西行という人物和歌の達人なんですけれども人脈作りの達人でもあったんです。 西行の人脈地図を作ってみました。 平安時代の末 西行はこの一帯の荘園を管理する裕福な武士の家に生まれました。 二十歳になった西行は「北面の武士」として朝廷の実権を握っていた鳥羽院に仕えます。
出家後 西行は 妻や子とも離れ都の周辺で 転々と庵を結びます。 勝者に近づくのが世の常と申しますがしかし 西行は弱い立場になった者を見捨てずかえって 和歌を贈り合い絆を深めます。 待賢門院は 西行の仕えた鳥羽院の后でしたが院は 別の女性を寵愛。 西行は 寺の僧侶に一首の和歌を託します。 「保元物語」には西行の歌によって大坂の住大社に後白河院が行幸した際西行はそこに立ち会っているのです。
幅広い人脈を築いた西行はやがて 「勧進僧」としての役目を求められるようになります。 今は 「大会堂」と呼ばれているこの お堂は西行が 勧進僧として移築した名残です。 平 清盛 あるいはその上皇様方 天皇様方とも深い関係があったので…奈良・東大寺の大仏復興です。 西行が向かう先は栄華を極める 奥州藤原氏。 実は西行は 奥州藤原氏と遠い血縁関係があり西行の頼みなら 秀衡も莫大な金を寄付するのではと期待されたのです。 ところが 頼朝は奥州藤原氏と対立していました。
実は 西行の身につけていた弓馬の術は藤原秀郷という武士の流れをくむものです。 西行は 春の吉野山を何度も訪れ20首以上の歌を 詠みました西行は どんな桜をめでていたのでしょうか。 吉野の シロヤマザクラは何か もう一つ他に西行の妻と子供が暮らし最期を迎えたと言われる地。 西行の ほほ笑ましいエピソードが伝えられていました西行が子供たちに 「わらべどもわらびとれども やまやくな」と。 ほんとに西行さんが 子供たちとすごく近い距離にいたという事。