インターネットが使えるようになってすごい便利になったんですけどSNSだったり それらで 事件とか問題に発展するケースが今多いと。 今までの社会というのは 国家という強いつながり というのが中心的というか引っ張ってきたんだけどそれが 経済的な問題も含めて立ち行かなくなってきた時に例えば 本を作るのでも物作りのように 丁寧に 本を作るような小さな本屋さんが意外と健闘してたりとか。 つながりという意味では春名さんは ツイッターで17万人近いフォロワーの皆さんとつながってるわけですけれども。
先崎さんはそういう感じがないんですよね?いや むしろ そういうのに 敏感な最初の世代なんじゃないですか?今「ツイッターをやる事で 交通事故的にショックを受ける」って言ったけどそれ 要するに不特定多数の人から自分が攻撃されてるような感覚それが 自分の事に 過剰に批判してるんじゃないかとか多分 そういう事が意外と グサッて来るっていう。
例えば それこそ さっき「趣味でつながる」って話ありましたけどまさに趣味のホームページとかがあってそこで 例えば サッカーが好きだとかゲームが好きだとか漫画が好きだってつながっていったのが今だと何でしょうね…例えば… そうだな「2ちゃんねる」に専門の板があったりするとかあるいは 「ニコニコ動画」にコミュニティーが あったりするとか最初に好きなものを共有したいという気持ちがあるんじゃなくてまとまる事が最初になって手法と目的が逆転してるような感じで 集まる という事が仕組みが先鋭化した事によって散見されるよう
一つ 話を ツイッターというかネットから 少し引き離してしゃべりたいんだけれどもこれは 金融資本主義とかグローバル化と一緒で急激に人とつながって拡散していくっていう特徴があるんですよ。 そういう箍が外れてどんどん広がっていってるのが「金融資本主義」の特徴だったりするわけ。 先ほど 村上さんがおっしゃってた言葉を僕なりに 鋭いなと思ったので言い直させてもらうと「まとまる事自体が 目的になってる」って 言ってたでしょ?それって キーワード的に言うと「手段が目的化する」って事なんですよ。
そういうところが 何か良かったものが 悪かったものに村から みんな都市に出てきて大衆社会が出来上がってそこの中で 社会に いろんな混乱が生まれてる という昔の大衆社会論と すごい似てるなって気がしていて。 ただ少し しゃべらしてもらうと「ポピュリズム」っていう言葉は僕は すごく危険な言葉あるいは「大衆主義」って言葉僕も使うけど 危険な言葉でねこうこう こういうような動きをすると。 そういうような社会っていうのが実は 大衆社会の一つの特徴です。
ファッションって ほんとに何も考えずに感覚的な世界だと思いますがそれで起きてるというのが まさに今の話と 結構 近いと思うんです。 なんか もう その流れで止まらなくないですか?僕 さっきからああいうふうな言い方しつつ古市さんが言ったように今 みんなが発言して感覚的でも わ~わ〜っていう社会って 別に…それでいいと思うというか そんなもんじゃないかなと思うんです。 民主主義そのものがはらむ理想と現実のジレンマ。
さっき言ったような自然と出会っちゃう話とかあるいは 一番 最初ぐらいにTehuさんもおっしゃってたけど「ネットで真実を見つけちゃったぞ」みたいな現象によって 主婦がネトウヨ化する感じで起きるのがすごい起きてるなと思います。 これは 僕も 何となくネットを観察して見てたんですが昔のネットというほど昔でもないですけど2000年代前半くらいのころはもっと地下で活動家たちが 陰謀論を巡らしてるという感じだったんですけど今や すっかり カジュアル右翼みたいな感じになってますからね。
僕 好きな言葉に田原総一朗さんの本に「連合赤軍とオウム わが内なるアルカイダ」という本があって「わが内なるアルカイダ」いいなと思ったんですよ。 アルカイダって知ってます?ちょっと説明させてもらっていい?アルカイダっていうのは 分かりやすく最近のニュースとかで言うとああいうような過激な事をする人たちの 1つの大きな集団がアルカイダっていうのがあったのね。 「わが内なるアルカイダ」っていうのはどういう事かっていうと普通 こういうふうに考えるわけ。
それは 社会全体の中に…今度 個人の内面から社会全体に言うと僕は 今の日本の社会で よくあるバッシングね あれっていうのも異常なまでに細かい事…そんな事にそんな 目くじら立てる必要あんのという 違和の排除でしょ?違和感の排除 違和感の排除というのは社会全体を覆うと実は その「ピュア」っていう問題が大きな問題として クローズアップされる。
だから みんな それに対してテレビとか ボーンって 大きいメディアでこの前 はやった「アイスバケットチャレンジ」とかはやっぱ すごい今っぽいなと思っていて。 あのころって 「新中間大衆」という仮説的に設置したクラスターの正体がそれにコミットしてる人なのかが比較的 分かりやすく区別できるようになったんじゃないかなとか思うんですよね。
それに関しては僕の意見としてはそんなに結論づけるのは早いなと思っててなぜならどうやってネットが政治に…例えば 選挙とかに使えるかはまだ始まったばかりだし今 あと その話でいうと今回 ネット選挙で前回の都知事選の時って政策を掲げずに ネット上で 政策を選挙期間中に集めるというので一応 3万の声から 120の政策を作ったというプロセスやったんですね。 実は 都知事選の時に主題になってた脱原発か 原発推進かというところを抜くと大体 同じ事言ってるんですよね待機児童とか。
だから それは 経験的にこれが危険だこれは大丈夫とかっていうのをある種 でも僕は ネットというもので議論とかってなっちゃうと弱い人の受け皿とかにはすごい役立つと思うんですね。 でも一方で 今 ツイッターとかネットで起きてる事って政治的な一種の違いによる人々の分断じゃないですか。 地方の選挙って今 ほんと 地方自治体 見てると論点がないんですよ。 候補者言ってて 若い人に起業とか農業使った独自産業とか。
今までだったら理解されなかったこの子 ちょっと変だないわゆる 変な意味での面白い子だなと言われてたのが君は すごい すてきだねってネット上で応援されて実際 大人も たくさんついて応援されて 今 自分の研究をすごい 前に進めてるという例があったりとか。 ネットって 自分のファンを作るとかでも それって 社会全体を考えた時に 社会の基盤には結局 なりえないんじゃないかみたいな話にもなるかなと思ったんですけど どうですか?でも なりうるんじゃないかと思うんですけど 普通に考えて。
それを 今までの僕の勉強スタイルとか生活スタイルとは違うものを不可避のものとして取り込みながらどうやってだけど 自分を見失わないで位置づけてくかというそこが なじませるという事で多分 それをおっしゃっててそれは個人においても そうだし社会においては 社会における共通の価値観みたいなものに違うものが来た時に やっぱりなじませていくという事だよね。 多分 その なじませるという事は今日の話で言えばポピュリズムと民主主義の決定的な違い。
3つの条件が必要で全員一致であるという事と二者関係が独立してるという事が重要であるという事とあと 非独裁性が必要だという事を言ってて。 あと 「非独裁性」というのは「AかBがいいかは 俺が決める」みたいな事を言っちゃうと公平じゃなくなるから駄目という話なんですけどこれを同時に満たす事が数学的な操作ができないというのが あるらしいんですよ。
そもそも地方の中で支持者がいて支持者の意見をまとめる政治家って人がいて政治家って人は 地方の意見も当然 中央に伝えるけれども中央から下りてきた事を 地方にもちゃんと説得させるというファシリテーションをしていたんだけれどもその政治が都市に住む人が増えて無党派層が増えて成り立たなくなってるのが多分 今だと思うんですね。