先人たちの底力 知恵泉(ちえいず) 補佐役の極意「保科正之」(前編)

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この番組のまとめ

家綱の時代には 幕府転覆をねらった由井正雪の乱や江戸の町の6割を焼き尽くし10万人以上の死者を出した明暦の大火など幕府が倒れかねないほどの大事件が続きました。 将軍・家綱に直結した補佐役だからこそ僅か3年で 全国に33店舗を展開。 それを任されたのが社長の補佐役・安田さんでした。 社長の夢を実現に導いた名補佐役安田道男さん。 四代将軍・家綱の補佐役として活躍した人です。

7歳になった正之は信州高遠2万5,000石の藩主保科正光の養子に入ります。 それが大きく変わっていく時代でもあるわけですけどもそういう中で 保科正之は民の生活を安定させようというそういう文治政治の方に舵を取っていく。 さあ 11歳という非常に若い小さい家綱の補佐役になった会津藩の貴重な史料を数多く所蔵する…特に幼い皇帝と その重臣が行った政治のエピソードが家光の代には島原の乱も起きいまだ戦乱の世が 収まっていないと考えていたからです。

トップの意識改革を実現するにはまず周囲から。 それをきちんと説得するというのはどうやってやったんですか?もうほんとに 数字で表して細かく計算をしまして原材料費が いくら 人件費がどのくらい かかりそうだと。 さあ 周りの意識改革から補佐役の仕事を始めた保科正之ですけれども日光の 家光の墓所に参詣していた正之のもとに江戸から驚くべき知らせがもたらされました。 由井正雪という学者が1,500人の浪人を率いというのも 由井は高名な軍学者で門下生の数は およそ3,000人。

その一つが 「末期養子の禁止」という制度を変更する事でした。 「末期養子の禁止」とは大名などが…初代将軍・家康がお家騒動の原因になると厳しく禁止したのです。 しかし 正妻の子が いなかったり当主が まだ若かったりしてしかし 家康が決めた事だけに将軍・家綱から深く信頼されている補佐役・正之だからこそ世間も 伊達政宗の時は15人。 会津藩内で 大きな反対も混乱もなかった事から2年後 正之は今度は幕府中央でも正式に「殉死の禁止」を定めるよう提案。

その代表が 玉川上水と言えますかね。 これが 玉川上水なんですね。 あれが 玉川上水の始めでこれが玉川上水。 ここの場所がまさに 玉川上水の起点だったと。 玉川上水と 多摩川の位置関係はこうです。 そこから 流れを分岐して造られたのが 玉川上水。 玉川上水に取り込む水の量は水門で調節する仕組みです。 羽村市 郷土博物館に江戸時代の水門が復元されていました。 大雨などで 水の量が増え水門が壊れそうになった時水門と 玉川上水を守るためにある仕掛けが施されていたのです。