戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第6回

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この番組のまとめ

♪~石牟礼道子さんの代表作「苦海浄土」。 石牟礼さんは実に40年の歳月を費やして「苦海浄土」3部作を書き上げました。 石牟礼さんは 近代がひたすら成長に突き進む中で石牟礼さんは 水俣病の本質を問い続けてきました。 これまで 40を超える著作を世に送り出してきた 石牟礼さん。 石牟礼道子さんは 昭和2年熊本県の天草に生まれました。 昭和18年 水俣実務学校を卒業した石牟礼さんは少国民を育てるって。 通勤の汽車の中で出会った戦災孤児の少女を家に連れて帰った事が石牟礼さんの筆を動かしたのです。

その時 採ってきた このビナとか貝類を捨ててこいって前の この川にね 捨てる時の父親の悲しそうな顔というのはかつて炭鉱地帯だったここを拠点に昭和33年労働者や農民の自立をうたった創刊号では 「一つの村を作る」と宣言しています。 九州と山口から 炭鉱労働者や教員職人や主婦などおよそ200人が参加し生活の記録や評論ルポルタージュなどを寄せました。

石牟礼さんは この日久しぶりに明水園を訪ねました。 覚えとる?このごろ 調子はどぎゃん? よか?一光さんの事を杢太郎少年として描きました。 石牟礼さんは一軒一軒 患者さんの家を回り深く思ってまして。 「海と空のあいだに」と題され雑誌「熊本風土記」に連載された原稿。 この雑誌の編集者だったのが渡辺京二さんです。 渡辺さん自身も石牟礼さんと共に歩むように執筆活動をしてきました。 まあ 文学作品紛れもない文学作品でね。 そういう作家だって事を感じてねこれは絶対に 評判になる作品だと思いましたね ええ。

母であり 妻でありながら水俣病を書き続ける石牟礼道子さん。 それでも 石牟礼さんは水俣病から逃れる事はできませんでした。 高群逸枝は 詩人で日本の女性史研究の先駆者でした。 「母系制の研究」などを著し歴史上 女性を中心とした高群逸枝の思想は 日本近代思想の終焉に当たり 思想史的にみても顕現するほかなかった菩薩行ではなかったか。

まあ知恵とか思想みたいなものを石牟礼さんは「水俣病研究会」に参加します。 その 何ていうかこういう文章を あの当時石牟礼さんをして書かせたものは何かというと被害を受けた一人一人の患者に対する表なんですよ。 「水俣病患者一覧表」。 チッソ水俣工場が昭和39年に作成した「水俣病患者一覧表」。 石牟礼さんが報告書に書いた浜元二徳さんは現在 水俣市の病院に入院しています。 昭和46年12月から 石牟礼さんは水俣病の患者さんたちと共に座り込みは1年7か月にも及びました。

昭和51年に石牟礼さんの呼びかけに応じて研究者が集まり後にまとめた調査結果です。 この不知火海総合学術調査団には20人を超えるメンバーが参加しました。 だから 水俣病の運動で何というか 成果をあげなければ企業は勝手なままずっと いくだろうと。 「水俣病の認定を申請している人の中には補償金目当てのニセ患者が多い」と熊本県議会の議員が発言したのです。