今日は 京山幸枝若さん三原佐知子さん松浦四郎若さんそして 国本武春さんの浪曲 4席をたっぷりと お届け致します。
今度のご亭主の弥助さんは細かい人で 生まれ付いてのわんぱくで 何処に奉公に出されても 果ては短気な父上が母御の身体打ち ちょうちゃく 母が 後から ついてきて 涙に濡れた冷たい頬を我が顔さして 当てがわれ 慰められて このわしは泣く泣く戻る奉公先 呑まず食わずで戻って来て 裏口よりも こっそりと 入ろとすれば 父上 弥助の冷たい眼で ねめつけられ 指をくわえて とぼとぼと汝の家の表に来れば 冷たいご飯に味噌汁を添えて出された飯の味 出世するたび のう ネネよ思い出しては泣いたぞよ 余りのことの嬉しさにのう
成程 私ゃ 三十年ほど前沖長屋中兵衛とのなかに私ゃ 沖長屋を出たんだけど私の産んだ子の忠太郎はね九つの歳に 流行病で死んだと聞いてる」。 あんたが江戸から江州へ涙を流して無事を祈った忠太郎これ この通り立派に生きておりまさぁ」。 出し抜けにとんでもねえ野郎が入り込んで来やがって『死んだはずの忠太郎生きています 私だ』なんてお前の心は分かっているよ。 忠太郎だと名乗って出て娘に譲る この水熊の身代をいくらかにでもしようという魂胆さ」。
ちょうど そのころ忠太郎お蔵前から駒形辺り待乳山まで来た時には木の間を縫ってバタバタ バタバタ…。 瞼の母の面影をそっと抱いて忠太郎どこへ行くのか 旅がらすどこへ行くのか 忠太郎熱演 お疲れさまでございました。 うちの師匠は 結構明治生まれの高齢な師匠でしたけどもとにかく 分かりやすく やれという事を よくアドバイスされました。 その宿題がですね 武春さんにも先ほど お伺いしました「師匠から言われた印象深いひと言」。
履いてた草履を脱ぎ捨てて 草履合わせて ポン ポン ポン ああ よかった ごまかせたと 安心したのも つかの間で 舞台の袖へと お師匠さんが戻って ひと言「こら 幸太!」。 そのあと 私 京山幸太が どんな仕打ちに遭いましたか ちょうど時間となりましたので 隼人にいさん お後はよろしく またのご縁とお預かりお粗末でした まず これまでありがとうございました。
「オーストラリア メルボルン大学」。 「モナッシュ大学」。 「モナッシュ大学で」。 オーストラリアでも口演をしたそうでございます。 それでは その三原佐知子さんで「あゝ残留孤児」です。 流れ かなしや 四十と余年 思えば遥か満州へ 身の毛もよだつハルビンの あわれ異国の露と消ゆ 日本の子供と白い目で 石を投げられ 罵られ「はてな 今 確か 鈴木たけしと言ってたようじゃが空耳かのう。
二度目の夫にも先立たれ「王さん あなたは日本の御両親の事をどう思っていらっしゃいますか」。 それは 戦争とゆう極限状態がさせた事。 もう 日本には生みの親はいないものと♪「罪は あなたに 一つもないが」♪「帰国出来ても 迎来花」幸枝若師匠のアンケートの回答がこちらです。 締めてる帯が 伊勢音頭ちゅう帯。 何で 伊勢音頭か?七とこ 廻して ささ ヤートコセー芯が出ていて ヨイヤナーちゅう帯 締めてある。 何で そろべり羽織か?中で ひときわ立派な宿屋本陣宿で遠州屋という。
その当時 一両あったら米俵 三俵買えてまだ 釣りがあったっちゅう。 二足こんな きたない格好して一両なんて大金持っとる訳ないんやがな」。 「この親父2階の あの部屋へ連れて行ってこい」。 「あの 番頭さんあの部屋て どこだすか?」。 ええ? あの部屋やないかあの部屋やないかい」。 一番きたない部屋へ連れて行け云いたいんやけどなんぼなんでも 本人の目の前で云う事できまへんやさかい。 あの部屋やないかい あの部屋や…目で合図しよってん。 二階の三畳の あんどん部屋や。
亀ではあらじ草履の形 草履の形が亀に見えるは何かの不思議 中へ入って ひょっと見りゃ ひょっと目に付く六枚屏風 何と見事な この墨絵 まだ 墨跡が新らしい さては親父が書いた絵か これだけ見事に絵を書く親父 誰であろうと甚五郎が そばへ近寄り 屏風の名前 一目眺めて おどろいて 九州 鹿児島 御大将島津 薩摩の神様に 五寸四角の きれの中に 千人坊主の絵をたのまれて 筆は取れども 情なや 九百九十と九人まで 書いたけれども 千人目の 和尚の名前と お寺の名前 わからん為にこれ知らなんだら 絵かきの恥と