そこで ブッダは自分がいなくても自己鍛錬を続けていく方法を授けたのです。 そして その教えは今を生きる私たちにとっても第2回は自分自身との向き合い方をブッダの最期の言葉からひもときます。 ブッダがいなくても 涅槃への道がちゃんと保証されているか自分で判断できる基準「法鏡」を教えたのです。 これはですね ブッダがいなくなったあとの人たち…運営していけという事になってますからそれぞれの中で自分で自分を励まして修行していかなくちゃいけません。
情報が入るという事は我々の感覚器官が その情報の方を向くわけですから…ヴェーサーリーを訪れた ブッダはアンバパーリーという遊女の林に滞在します。 この言葉は 「自灯明法灯明」というブッダの教えの一つです。 不安がる アーナンダに対し道しるべは 一つは自分もう一つは法自分自身と ブッダの教えを大事に生きればいいのだとあれは「自灯明法灯明」という有名な遺言。 実際の言葉では「島として生きよ」という「島」と言う場合もありますし「灯明」と言う場合もあって両方あるんです。
この自灯明法灯明を実践するためには「法」というのは この場合には仏 法 僧の「法」とは違って…この4つに対して私たちは ふだんから全く間違った見方をしてるという事です。 間違った見方をしている?はい。 どんな見方かといいますとまず肉体に対しては我々の肉体は 掛けがえのないすばらしい美しいものだというそれにしがみついて 結局それが苦しみにつながるというわけです。