カズオ・イシグロ 文学白熱教室

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この番組のまとめ

フィクションや小説の重要性が不確かなものになっている。 フィクションや小説を真剣に捉えている私たちだからこの問いについて一緒に考えていこう。 もちろん 当時は日本語しか話さなかったし住んでいた家も畳とか そういったもののある典型的な日本家屋だった。 だが突然 23~24歳の頃フィクションを書きだした。 私が 頭で描いた「日本」を舞台にフィクションを書いた。 1982年発表のデビュー作…イギリスに暮らす日本人女性が戦後混乱期の長崎でかすかな希望を胸に懸命に生き抜いた若き日々を振り返る。

小説ならば自分の情緒的な日本というものをとどめる事ができる。 「私の日本」を舞台にした小説を2冊書き上げたあと…私の本はほとんど 西欧社会で読まれ特に ヨーロッパやアメリカで読まれていた。 ちょっとうぬぼれた言い方をすると「他の小説家とは違うこれは 自分の独特なスタイルだ」と思っていた事を人々は 全て「日本の事」と受け止めた。

舞台設定をためらい場所を決めるのに長い時間を費やしてしまう。 SFにも 中世の怪奇小説にも推理小説にだって仕立てられる。 そこで 私が心掛けているのはそのアイデアを 簡潔に 2つ3つのセンテンスの文章にまとめる事。 ノートに書きとめたアイデアを見返してその短い文章だけでアイデアの発展性や湧き上がってくる感情があるかどうか確かめる。 小説を完成させるまでの時間のうちどのくらい ロケーションハンティングつまり 舞台設定の下調べに費やしているのか教えて下さい。

フィクションで できる事は異なる世界を創り出す事だ。 このような世界はノンフィクションや ルポルタージュでは生み出す事はできない。 これは 物語を語るうえでフィクションで使われる 一つの手法で紙の上でしか 描く事ができない。 だが フィクションでは信頼できない事で面白い事が起きる。 だから フィクションを書いている時信頼できない語り手や信頼できない物語の進行役を用いると読者は 「読み取る」スキルを使う事になる。

ナチス・ドイツの協力者となりナチスを助けていた。 フランスの どの村でも 誰かがレジスタンスを ナチス・ドイツに売っていた。 一世代前に起きた恐ろしい出来事の記憶は普通の記憶や いい記憶と共に忘れられている。 「私たちは深く愛し合っているがもし この大切な記憶を失ったら愛情までも失われてしまうのではないか?失いたくないから記憶を取り戻したい」と。 南アフリカにはアパルトヘイトの記憶がある。 だが時々長い間 記憶を隠しておくとある時 問題となって現れる。