戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 未来への選択(3)環境

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この番組のまとめ

四日市ぜんそくの認定患者野田之一さんは経済発展の陰で多くの人々が 公害に苦しんだ。 高度経済成長の中 1960年代日本各地で 公害病が発生した。 1955年 政府は…四日市市役所に勤めていた玉置康生さん。 四日市市はコンビナートに強い期待をかけていた。 このころ 本格稼働を始めた四日市のコンビナート。 1960年 ここで取れる魚が魚の異臭騒ぎの翌年四日市の市民の中に変な咳をする人たちが続出。 ところが そうやって…宮本憲一さんは1962年 四日市を訪れた。

一般的に 公害現象とつまり 大気汚染や水汚染や地盤沈下やですね。 古川さんによれば1960年代 公害対策と経済の公害の規制 健康被害とかそういう事ばっかり言ってたら蓄積した資本がね再投資できないと。 厚生省という役所は国民の健康とか人命本来なら あんまりやりたくないんだけどもしょうがないから マスコミが騒ぐから新聞で たたかれるから多発する公害に追いつかない政府の対策。 四日市のような大規模開発を全国に広げようと拠点となる 15の新産業都市それに準ずる6つの工業整備特別地域を指定した。

沼津工業高校の先生を招いて第1回 公害問題学習会が開かれました澤井さんは 沼津に倣い地域で学習会を繰り返した。 しかし通産省 経団連などが主張した「経済の健全な発展との調和が図られるようにする」という文言いわゆる「経済調和条項」が付け加えられた。

それに対する 大きな危機感で佐藤さんが急遽 そういう…一元的な公害行政やるっちゅういわば大胆なね当時としては 大胆な政策を後に 「公害国会」と呼ばれるようになる。 これは やっぱり 日本の深刻な環境破壊などを見ればねやっぱり健康障害が出てから対策を立てては遅いんでねやっぱり 良き環境を保持する維持するという その権利がね公害対策から環境保護へと時代は大きく転換していく。 1972年に スウェーデンのストックホルムで開かれた 「国連人間環境会議」。

北海道伊達市は 市民が参加して環境権を条例で定めた町である。 民法 環境法の専門家の…伊達市民の環境権裁判を支援した。 札幌地裁は 環境権を 訴えの根拠にする事を認めなかった。 生活権をどうしてくれるんだ!このころ 環境権を掲げ公共事業の差し止めを求める裁判が相次いだ。 大阪空港公害裁判では住民が 飛行機の深夜の発着の制限を求めたが環境権は 訴えの根拠としては認められなかった。 訴訟の中で被告として訴えられた北海道電力 これが公害対策から環境保護へ。

伊達市では 裁判の敗訴後も市民が 環境権を地域の暮らしに生かすよう市に提言し続けた。 その声に押され 伊達市では環境基本条例を作る事になった。 1997年 条例作りのための市民会議が発足した。 2年に及ぶ話し合いの末「伊達市環境基本条例」が誕生した。 京都議定書では 途上国が温室効果ガス削減の枠組みに参加していなかった。 更に ブッシュ政権を支えた石油産業界は同時に COPを舞台に EUなどと京都議定書を運用するためのルール作りに取り組んだ。