白熱教室特別版「完全版 カズオ・イシグロ 文学白熱教室」

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この番組のまとめ

この独特な世界観が織り込まれた原作 「わたしを離さないで」はイギリスの作家 カズオ・イシグロによるもの。 長編小説「日の名残り」では英文学最高の賞 ブッカー賞を受賞し更にイギリスの新聞「タイムズ」の紙上では「戦後の英文学で最も重要な50人の作家」に選ばれました。 今年3月 10年ぶりとなる長編小説「The Buried Giant」その カズオ・イシグロ氏が来日。 イギリスに暮らす日本人女性が戦後混乱期の長崎でかすかな希望を胸に懸命に生き抜いた若き日々を振り返る。

「私の日本」を舞台にした小説を2冊書き上げたあと…「私の日本」として強調したけど私の中で創られた日本だから。 読者は 私の小説は特別な日本の話だと考える傾向にあった。 私は 普遍的な人間の体験だと思って 表現したんだがまだ 日本という国や日本の文化は今のように世界に知られていなかった。 これは 自分の独特なスタイルだ」と思っていた事を人々は 全て「日本の事」と受け止めた。

そのアイデアを 簡潔に 2つ3つのセンテンスの文章にまとめる事。 それでも私は思いついたアイデアを 2つか3つ長くても4つの文章で まとめようとする。 ノートに書きとめたアイデアを見返してその短い文章だけでアイデアの発展性や湧き上がってくる感情があるかどうか確かめる。 往々にして アイデアというものは時代や場所が決まっているわけじゃない。 こうして アイデアを どんな舞台にも動かせると知ったおかげで困った事になった。

何が現実で 現実とは何かという哲学的な議論はさておきもっと劇的に物事が起こってしまう 幻想的な世界。 この現実世界とよく似ているけれど物語を置いて際立たせる」というものだ。 書き手としては その世界を訪れる人 つまり読者を物理的にも 肉体的にも精神的にも何でも可能なファンタジーの場合は特にだ。 「フィクションとは何なのか」。 フィクションで できる事は異なる世界を創り出す事だ。 こんな効果的な事ができるのはフィクションだけだ。 つまり 一般的な意味のフィクションだ。

物語そのものはいいが 私自身が書いた 小説の手法に対してだ。 そこで 小説が 表現の形式として重要な位置を保つにはちょうど そのころマルセル・プルーストの長編小説「失われた時を求めて」を読んでいた。 30年前の場面が 2日前に起こった出来事と直結して語られる。 こうした記憶の語り方が小説では 何度も行われてきた。 映画が 記憶を描こうとした途端感触といったものが消えうせてしまう。 ここから 記憶の信頼性というテーマに つながってくる。 記憶は 信頼の置けない曖昧なものだと思うのだ。

だから フィクションを書いている時信頼できない語り手や信頼できない物語の進行役を用いると読者は 「読み取る」スキルを使う事になる。 最近 更に興味を持ったのは社会全体がどのように自分たちを欺くのか。 記憶の本質的な曖昧さに向き合う事と過去の歴史的な社会的な罪に対して責任を負う事についてどのようにお考えでしょうか?それに対する簡潔な答えは ないだろう。 フランスの どの村でも 誰かがレジスタンスを ナチス・ドイツに売っていた。 誰が レジスタンスに身を投じて敵に売られたのか知っていた。

南アフリカにはアパルトヘイトの記憶がある。 だが時々長い間 記憶を隠しておくと個人個人の中にある社会的な記憶について社会における記憶はどこにあるのだろうか。 国や コミュニティーあるいは社会といったより大きな集団においてその記憶は どう働くのか。 ある国における 社会的な記憶何を忘れ何を覚えておくかといった事に小説や映画といったものは大きく関わっているとも思う。 どれほどの事を社会が記憶するのか。 その舞台は 1920年代のアメリカミュージカル映画だ。

私が 読者の皆さんにまず気付いてほしかったのは語り手として登場する主人公の言葉がその言葉どおりには受け止められないという事だった。 主人公の言葉はどこか信頼できないものだった。 主人公は 自分に正直になっていくと 言いかえてもいい。 物語の主人公は 現実に向き合う勇気を持っていくからだ。 人生に 直接関係する何かの隠喩だったから小説家の仕事は事実を伝える事なのでしょうか?それとも うそを伝える事なのでしょうか?実は 意識して「うそ」という言葉は使わなかった。