平尾昌晃さんといえば もう今たくさん流れてましたけどいろんなジャンルの いろんな曲をという感じですよね。 平尾昌晃さんです。 子供の頃は 江の島の自宅に親戚や知人が集まり昭和29年 地元の中学を卒業したあと父親の強い勧めで慶應高校へ進学。 高校生の平尾さんは 座間や厚木の米軍キャンプで歌いました。 平尾さんは 高校を卒業したらプロ歌手の道に進もうと考えます。 そのためには 慶應大学進学を希望する家族や親族と会議を開き説得する必要がありました。
優勝か何かしたの?あの頃はね鐘が3つ鳴るとねスイカとかねハゼとかねトウモロコシとかね。 そんなジャズ学校なんていうからもうすごいビルディングですごいんだろうなと思ったら畑の真ん中にプレハブみたいのがあってね。 さて その後 平尾さんは思わぬきっかけで作曲家としての道を歩み始めます。 平尾さんが 21歳の時に初めて作詞・作曲した「ミヨちゃん」は40万枚のヒットを記録します。 平尾さんは また自分が レコード歌手としてカムバックできるのではないかと期待しました。
でも 布施君が いなかったら僕も作曲家には なってなくていまだに何か あれかな…歌ってたか。 布施君の所属してるプロダクションもすごく僕を買ってくれて3作目の時に「そろそろ秋の歌を作んなきゃいけないから「湘南に来たんだから 湘南の歌を作りましょうよ」ってなったのよ。 さて 着実に作曲家としての道を歩み始めた平尾さんですけれども結核が原因で人生の大きな転機を迎えます。 昭和28年に 国が結核療養所として開設した 岡谷塩嶺病院です。
岡谷での1年間の療養生活を経験し平尾さんは作る曲が変わったと言います。 1年間の療養生活を終え退院した平尾さんは約束どおり ふるさとを描いた曲を作り始めます。 平尾さんが イメージした城下町は岡谷市の隣諏訪市のお城のある風景でした。 翌年から 各地の障害者施設や高齢者施設を回る「愛のふれあいコンサート」をスタート。 ♪「真っ白な雪道に 春風香る」平尾さんの人生を変えた岡谷塩嶺病院は今年の10月をもって岡谷市民病院に統廃合されます。
これは もう自分のライフワークとして生涯 続けていきたいし生涯現役であり 生涯青春。 「自分は今が一番いい時だよ」と言ったら それが青春なんですよ。 今日は本当にね あっという間に時間が過ぎてしまいましたよ本当に。 さっきの生涯現役 生涯青春というこれからも本当に青春ですか?青春でいたいですね。 今日は本当ありがとうございました。 風吹さん 今日の「D’sスタイル」平尾さんいかがだったでしょうか?久しぶりに お会いしましたけど本当 毎回エネルギーを感じるんですよね。