先生ね そういう時代の転換期を乗り越えた生き残った歴史上の人物っていないですか?あっ いますね。 島津義久っていう人なんですけど。 摩の 鹿児島の大名でね戦国期を乗り切って秀吉・家康の あの激動期を九州の島津家です。 指揮を委ねていたのが 今日の主人公 長男の島津義久です。 「戦国の奇跡」と言われるその経営術とは?時代の転換期を乗り切る島津義久の極意に迫ります。 今回 島津義久の知恵を読み解くのは森川 亮さん。 テレビ局の局員から大手電機メーカーを経て2007年 40歳でIT会社の社長に就任した森川さん。
戦国乱世を乗り越えた島津義久の知恵をどう 読み解くのでしょうか。 今日はですね 是非この島津義久から いろんな知恵を見ていきたいと思うんですがまずはですね 当時 島津家がどういう状況に置かれていたのか。 南九州の有力大名 島津家に4人の子供が誕生します。 家中から 領土奪還の悲願を託され成長していった島津兄弟。 ただ 義弘もやっぱり 人気はあって家臣たちも 義弘のためには死んでもいいっていうのもたくさんいるっていう感じなんですがそういうのが合わさって 島津家を強大な戦国大名にしたわけですね。
鹿児島市の北西にある…九州に侵攻してきた秀吉が陣を置いていた場所です。 義久は 僅かな従者を連れ秀吉と面会。 秀吉は 当主自ら出頭した事に免じ島津の取り潰しを見送り本州では 小田原の北条や東北の伊達などが抵抗を続けていました。 この義久の手腕に 秀吉は感服。 秀吉政権下で生き延びる道を選んだ 島津家。 そこには 秀吉政権にむやみに接近しすぎるべきではないというシビアな判断がありました。
さあ あえて動かないという知恵でピンチをしのいだ義久島津家なんですけれどもそこに もう一人 強大な敵徳川家康が現れます。 それは 天下人を目指す徳川家康の東軍につくか家康に反対する石田三成の西軍につくか。 家康は 西軍側で反抗した大名家を処罰し義久は家康に 手紙で こう伝えます。 「義弘は やむをえず西軍に加わっただけで当家は今後とも 家康様に敵対する考えなどありません。 家康は この謝罪を認めず西国に軍勢を送り義久に出頭する事を命じます。
その義久の判断というのが島津家を一枚岩にしたという事なんですか。 実際に その部下というか現場の方が失敗をしてフォローをした例というのは?例えば 僕たちは パソコン向けのビジネスをやってましてその時に ガラケーという携帯電話が出てきてパソコンで うまくいってたからケータイは やらなかったんですよね。 やっぱり 義久も任せるという事でその義弘が失敗をした時には自分が表に出て義弘を擁護しながら島津家を守ったという。
町なかにあるマンホールの蓋にも見られる 丸に十の字鹿児島市のシンボルマークも もちろん丸に十の字をモチーフにしたものここに 島津好きが高じてとんでもないものをつくった人がいました。 4,000坪の敷地には戦国時代から江戸初期の武家屋敷や町人長屋など8つの建物が並びその中心には3層の天守閣が建っています。 誰のものだったのかは分かっていませんが丸に十の字がついている事から指揮官クラスの武将のものと考えられるそうです特徴って あるんですか?特徴はですね 鹿児島の鎧はほとんど革で出来てるんですね。