父の斉興は斉彬に藩主を譲る事をためらい側室の子で聞き分けのよい次男の久光を次期藩主にしようと考えていたのです。 幕府側が強力に後押しした事でついに斉彬の摩藩11代藩主就任が実現します。 差出人は下級藩士の西郷吉之助後の隆盛です。 しかし 一方で斉彬は西郷の持つ頑固さに大きな可能性を感じていました。 斉彬は 身の回りの雑用を務める御庭番として西郷を抜擢。 その大胆さを気に入った斉彬は小松に留学生派遣計画の立案を命じます。
普通は 利益誘導をすれば言う事を聞くわけだけど絶対 自分が間違ってると思ってる事言う事を聞かないわけですね西郷は。 やはり自分の意見が主張できるという事。 例えば その3時間だったらどっちが意見を言う時間の配分は長いんですか?それは学生の方が言う時間は長いですね。 ですから かえって素直で自分の意見を言わずに先生の意見を尊重しながら聞いてる者よりもメダリストですよ。 室伏選手は…室伏さんは こだわりは?自分が納得しないという事これは もう全て動きに つながらないんですね。
特に親しかった仲間の一人が…他にも 福井の松平慶永や宇和島の伊達宗城佐賀の鍋島斉正など西洋文化に興味を持つ大名たちと連絡を取り合いその知識を深くしていきました。 斉彬は このネットワークを人材育成にも活用しようと考えます。 ただ下級武士の場合所得が低いのでお金がありませんからある時 御庭番を務めていた西郷に 福井藩と接触させます。 西郷は 「自分は橋本左内に学問においても 人物においても遠く およばなかった」と言って深く死を悼んだそうです。
ここは斉彬公も お気に入りで勝 海舟や オランダの貿易商など賓客が来ると案内したそうです鹿児島湾を池に 桜島を築山に見立て設計された庭園。 70キロの砲弾を3キロ先に飛ばす事ができ日本屈指の飛距離を誇りました斉彬は この地に反射炉を中心にした工場群を築きました。