ETV特集「むのたけじ 100歳の不屈 伝説のジャーナリスト 次世代への遺言」

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この番組のまとめ

この日 私は朝日新聞社を辞めた。 私の講演に行って一生懸命 しゃべって終わって ここへ座ってる時「ああ 元気が出てきた。 「よく眠る事 よく食べる事それを やってきたからでしょう」なんて言っておったんですが60代になって眼底出血やってそして不思議な事にあんまり暴れるなよ。 両親は 頼まれた荷物を運び手間賃で稼いだ。

そういう その在郷軍人会の役員みたいな人が『夫が お国のために立派に働いた軍国の妻として日本は「国民政府を対手とせず」と唱え戦火を収める道が遠ざかった。 斎藤隆夫だ! ハッハハハ。 新聞記者仲間は やっぱり みんなもう注目しておったんだけども。 新聞の論調も 世論を受け斎藤隆夫に批判的だった。 捜したが 斎藤隆夫の行方はようとして知れなかった。 当時 中国は国民政府と毛沢東の共産党の2つの勢力が競っていた。

昭和16年12月8日太平洋戦争が勃発。 日本の政策は大東亜共栄圏を スローガンにいつも私が ジャカルタ市長 どこになるのかなと言っておったら辞令を見せるの。 これは 日本の朝日新聞へ送れば2面か3面の1段で片づけられるけどアジアの諸国が これを見れば みんな「あ~」と言って反応が起きるぞ。 太平洋戦争は東條内閣で始まった。 この東條英機という人間は一体 何なのかと。 それで その時は朝日新聞で小さな社会面の隅っこに国会の いろんな囲み記事があったの。

ごく当たり前の学校へ通うねごく当たり前の職人として東京下町で働いていた人間ですよ。 戦争なんか 百回やったって万回やったって犯罪を深めるだけでね人間を不幸にするだけだ。 そうじゃない?辞めて 責任を取るというのは日本人は よくやるけどこれは絶対反対だ。 タブロイド判 2ページの週刊新聞「たいまつ」。 こういう 過去 現在 未来の関係を明らかにしてそれを民衆へ伝えていくのがジャーナリズム。

琉球新報の記者たちが沖縄戦当時の報道を検証してこれこそ 私が戦後朝日新聞でやるべき仕事だった。 なぜならば もう10年たったらねあの十五年戦争の経験を持った世代と 今の若い世代とが若者たちも必死に考えれば今ね やっぱり歴史のバトン 引き受けてやらなきゃいかんのだという気持ちをピンと感じてるんじゃないですか。 その時 「ああ 希望が 希望の花が咲き始めたな よかったな」と私たちが 今日みたいな平和活動を続けていく上で何か アドバイスなどあったらお願いします。