第45回NHK講談大会

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この番組のまとめ

まずは 一龍斎貞心より口上 申し上げます。 そしてその春に 一龍斎貞山君がそして また 今 ここにもおります神田松鯉君も この45年が初高座。 という事は この3人が昭和45年 花の三羽がらす普賢菩薩の再来かはたまた 神田 紅か~。 え~ 続きまして神田派の総帥 神田松鯉より口上申し上げます。 「NHK講談大会」 最初の登場は一龍斎貞心さんです。 一龍斎貞心さんは昭和31年劇団こまどりに入り映画に出演するなど役者として活躍。 その後講談の魅力に引かれ昭和45年六代目一龍斎貞丈に入門。

秀吉亡きあと なおも大きな勢力を誇っておりましたのが加藤清正 加藤嘉明黒田長政 池田輝政浅野幸長 細川忠興福島正則の7人。 しかし それまでの豊臣の天下我が物にするためにはどうしても 一方におります石田三成と戦わなければならないがこの時 三成に この7人が加勢致しますってえといかに 家康といえどもこりゃ 勝ち目がない。 これを 家康の懐刀といわれます本多佐渡守に命じます。 ここで ふっと思い出したのが黒田長政。 あれは父上が黒田如水殿」。

この福島が後陣の備えに立ったらばいや 何千 何万の敵が来ようとも方々 ご安堵あれ。 また 細川の屋敷へ集まって一同細川を先頭に本多佐渡の屋敷へ。 「本多佐渡が待ちかねております」。 続いた 加藤嘉明が…。 あきれかえったのが本多佐渡守だ。 それではまずは ご案内は先に立って 茶室へ向かう後に従った細川忠興。 加藤嘉明が ピョコ。 黒田が ピョコ。 池田が ピョコ。 浅野が ピョコってみんな ピョコピョコ 曲げだした。 最後に控えた福島が「何だい? みんなピョコピョコ ピョコピョコ 曲げおって。

やがて 茶室に入ると細川忠興。 続いて 加藤清正。 さあ 福島正則。 やがて 本多佐渡が 袱紗さばきも鮮やかに茶をたてます。 順番に 嘉明 黒田 池田と来て浅野と こう来たんですがこの方 この日ちょっと 風邪気味だった。 さあ 福島正則まねしようってんで じ~っ。 ところが 細川忠興。 思わず 噴き出しそうになったが茶の心得ある細川が噴き出してはいかんというのでぐっと こらえた この時にこの肘が 軽~く 清正の脇腹へちょこっと当たった。

何の恩賞の沙汰もなく功なき 石田三成今日 お奉行の首席にしてその勢力 侮り難し。 神田 紅さんは学生時代 演劇に目覚め女優を志しますが昭和54年二代目 神田山陽と出会い講談の魅力に取りつかれ入門します。 お弟子さんも もう 5人で独演会も 毎年増えていて待ってました!「真田丸」という事でございまして今も 陽子さんがおっしゃっておりましたが私どもは「取らぬ狸の皮算用」をしながら来年は この「真田幸村」で稼ぐぞと思ってる訳でございます。

それ ご覧なさいまし」と小僧が窓を開けますとなるほど松倉豊後守の同勢が三千余人勢い堂々として九度山へ向かっております。 「いや そのようなつもりはございませんがそれでしたら 高野山にでもお登りあそばしたらいかがでございます? あそこは殺生禁断でございますから召し捕られるような事はございません。 右小脇には よろいかぶと左の手には袋入りの陣刀を携えてのそっ のそっと出てまいりましたのでいや 驚いたのは 角兵衛で。

この時には 裏側にズラ~ッとかなたより砂煙 土煙を立て駆け来たったる物見の侍!馬声を助くる力声手綱さばきも鮮やかに乗りいだしたるそのありさまはげにや 鞍上 人なく鞍下に馬なくお筒は煙のごとくに混沌として砂煙 土煙を立て駒ヶ岳大弐坊 丹羽琴之介伊勢崎五太夫 同じく久太夫望月官兵衛 霧隠才蔵に海野三左衛門をはじめと致して打ち鳴らしたる早鐘にかねて待機の 真田の郎党。 「真田左衛門尉幸村大坂出陣」の一席これをもって読み終わりと致します。

師匠は 一鶴先生が身まかりましたあとね琴梅先生のところに移られまして創作講談ですとか一鶴先生の もう人気だったオリンピックの講談もやってらっしゃるそうでございますが皆さん 聞きたいですか?ありがとうございます。 そしてですね 今 講談界でキラッキラの二ツ目の講談女子に助っ人に来て頂いております。 演目はと申しますと「忠臣蔵」から怪談話 古今東西 ヒロイン講談シェークスピアから文芸作品はたまた婚活講談とその守備範囲の広さといいますと業界一でございます。

牛込神楽坂を駆け上り 寺町通り 矢来を過ぎ講釈師は詐欺師が多いんでございます。 「四谷怪談」のうちお岩様 無念の一席本来ならば 25分はあるところなんと1分間にまとめたというダイジェスト版 これをもって読み終わりと致します。 さて今日は「天保水滸伝 笹川の花会」ですが。 これは 五代目 神田伯山先生が得意としてらっしゃいましたこのお話。 男の美学が詰まってるという事で伯山先生が亡くなりましたあとは一生懸命 稽古致しまして20年近く このお話を取り組んでいるそうでございます。

「おめえに 前もって通してたとおりな笹川の繁蔵が 野見宿禰の碑を建立するてえ名目で花会を開くんだそうだ。 花会なんてえのは貫禄定めといってな義理の包みの用意はここに出来てる。 「おお~ これはこれは飯岡の若親分。 風邪をひいて寝ておりますんであっちが名代を務めさして頂きます「飯岡の義理はな俺が預かっておこう」。 だからといって 隅っこの方で小さくなって縮まってりゃ親分の助五郎の名前に傷がつくんだ。 銚子のご陣屋 松平右京大夫様から御用の2字を預かってるという。

こんな時に助五郎から5両身内一同 3両なんと貼り出されたら忠次親分から また何を言われるか分からない」。 恐る恐る見上げてみれば「笹川の繁蔵さんへ 金50両飯岡の助五郎」と書いてある。 恥をかかしちゃいけないとふんだくるようにして懐に入れて こうして改めて『飯岡助五郎が50両持ってきてくれたよ』『身内一同が30両届けてくれたよ』と俺が恥をかくのを助けてくれたんだ。

これを重兵衛が連れて江戸へ出てきて吉原江戸町二丁目岩井屋という女郎屋へ20両という金でもって奉公に出した。 俺が口利いてな 大名屋敷に奉公さしてやろうじゃないか」ってんで 江戸へ連れ出してあろう事か あるまじ事か姉のおうめが働いている岩井屋これに おとはしねえが心配のあまりね 泣いて泣いて泣き暮らしている。 あの おっ おっ おっおうめとかって 女吉原にしずめにかけた あん時によおめえ 親代わり 親類代わり悪いけどここに はんこをつけって判代5両っつったな あれ半分しか もらってねえんだ。