ミュージック・ポートレイト・選「桂文枝×千原ジュニア 第2夜」

戻る
【スポンサーリンク】

この番組のまとめ

更に 落語家としては250を超える新作落語を自ら 書き下ろしこのごろ 安いがな。 テレビの仕事で こう忙しくなって落語 もちろんやってたんですけどもどうも やっぱりねこう 古典落語が合わなくなっていく訳ですよこういう口調やから。 で 無理して その…古典落語の口調になっても枕ではねわっと笑い取っても落語入ったら もうシュンとなるっていうか自分でも 何か 自分がしゃべってるような気せえへんし。

落語で なかなか受けへんしそれで それじゃあ新しい落語 作ろうという事で創作落語の会を始めるんです。 創作落語は 今の言葉で今の時代を映した 新しい物語。 そして 3年後三枝の創作落語「ゴルフ夜明け前」が文化庁芸術祭大賞を受賞。 もう 大阪の仕事を辞めて東京に移住するんですけど大阪では まあ 何か こう顔も名前も知ってもらってるというテレビの出方と全く知らない 初めましてっていう状況なのにもかかわらず大阪とおんなじテレビの出方しか僕ら 分からないんでいつも考えていたのはネタの事ばかりでした。

まあ そういう時の 何かこう心のね 揺れ動くいうか結局 2003年7月上方落語協会 会長に就任。 その3か月後には 大作「創作落語125撰」を完成させます。 絶望のふちに立たされた時ジュニアを奮い立たせたのは逆境に立ち向かう心意気を歌った疾風怒濤のロックンロール!ほんで 入院してると そこにお見舞いにいろいろ来てくれはって。 「芸人 千原ジュニアはまだ死んでないぜ」。 この歌に背中を押され芸人としての再起を誓ったジュニア。

おかしい!上方落語協会の会長に就任した桂 三枝は更なる挑戦を始めます。 まあ 協会の会員の中からね「『いつも 大阪へ行ったら落語を見よう思うのやけどどこへ行ったらやってるんですか』って聞かれる」と。 そんな寄席も一つ 二つと無くなり昭和20年代以降 落語専門の寄席は一つもありませんでした。 寄席を作る事は まさに上方落語界長年の悲願だったのです。 オープニングいうのんで天神橋6丁目からず~っと長い商店街を春團治師匠を人力車に乗せて僕が引いてね ずっと歩くとあれ うれしかったですね。

あれ サイコロ振ってしゃべるんですけどたまたま何か こう サイコロが 3回連続で「千原」っていうのが出たんですよ。 ジュニアは 芸人としての確固たる地位を手に入れたのです。 そういう中で こう 一生懸命回ってるのかなと思って41歳を迎え 人生の半分以上を笑いと共に過ごしてきた千原ジュニア。 2014年には両国国技館で 単独ライブを開催。 あっ! 土俵に入ってしまった!1,400年の伝統を破ってしまった!「スマイル」っていう曲なんですけど「いつでも 笑顔でいようね。