アメリカ兵ばかりでなく 日本の若者たちも夢中になりました。 ジャズを覚えたい一心でノートに歌詞を書いてもらい進駐軍クラブとはどんな場所だったのか?長年 ペギーさんと親交のある音楽評論家 安倍 寧さんです。 アメリカへの憧れが頂点に達していたペギーさんは進駐軍クラブのステージに立ちました。 コメディー西部劇「腰抜け二挺拳銃」の劇中歌です。 昭和27年 その実力を認められ高校を卒業と同時に レコードデビュー。 18歳の若さでアメリカで大流行していたシャンソンの名曲を歌い上げます。
とにかく自分が歌える歌をアメリカの兵隊さんの前で歌えるという事が何か すごく新しい世界で自分の歌が歌えるという事に夢中になりました。 昭和30年 ハワイのナイトクラブでの出演依頼を受けたった一人 アメリカに渡ります。 昭和33年 NHK高知放送局の開局記念番組としてそれが「南国土佐を後にして」でした。 このころは どこへ行っても「南国土佐」のペギー葉山。 この時 ブロードウェイでぶらりと ミュージカルを見ます。 後に 日本語の歌詞を書く事になる「ドレミの歌」との出会いです。
で この「南国土佐を後にして」は日本語は当然あるんですけれども代表作の一つとして英語のバージョンがあるんだそうですね。 あのころ親善使節でねよくブラジルも行きましたし外国に随分「南国土佐」歌いに行って。 そうしたら平川唯一さんってね「カムカム英語」の方が「ペギーさん 外国に行くんだったら英語の歌で歌った方が面白いんじゃない?」。 それでは その英語バージョンも含めてせっかくですのでペギーさんに その「南国土佐」さて ペギーさんは この曲以外にも次々と ヒット曲を生み出します。