今夜も 岩崎彌太郎ですけれどもどうですか あの豪邸 有野さん。 天保5年 高知・土佐で地下浪人という 低い身分の家に生まれた 岩崎彌太郎。 外国商人と通じた豊富な人脈と資金力をバックに坂本竜馬や後藤象二郎らの政治活動をサポート。 土佐のリーダー 後藤象二郎など倒幕に尽力した各藩の功労者たちは次々と 新政府の要職に迎えられました。 後藤の右腕として尽くしてきた彌太郎も当然 新政府に登用されると期待します。
彌太郎は政治の道を閉ざされた事に激しく失望します。 彌太郎 40歳の決断でした。 彌太郎は そこにビッグチャンスを見いだしました。 そのシェアは 圧倒的で新規に参入した彌太郎の会社が入り込む余地はなかなか ありませんでした。 ある時 彌太郎はライバルの日本国郵便についてこれには 理由がありました。 江戸時代の身分制度の意識が抜けない彼らは会社組織になっても 客として来る庶民を 下に見ていたのです。 当時 日本人よりも…三拍子そろった彌太郎の会社の評判は 次第に上がり客が増え始めました。
彌太郎の会社も ようやく軌道に乗り始めるんですね。 サービスの向上で徐々に顧客を増やし日本国郵便を追い上げていった彌太郎。 西南戦争の際も 彌太郎は軍事輸送で 政府に全面協力。 明治政府は彌太郎の会社をバックアップする事が国防の強化にもつながると考えるようになります。 客の絶対的信頼を勝ち得た事で彌太郎の会社は日本最大の企業へと飛躍する事になったのです。
「我々が全部やってあげるから我々にやらせろ」って言って全部 設計し直して品目ごとに 全部 作り直してそれから長崎造船だとか あるいは高島炭鉱なんかの鉱山業ですねそういう いろんな分野に進出していくんですね。 彌太郎が こだわりを持っていたという石灯籠。 石灯籠にしては巨大なものです同時期に購入した庭が文京区にある六義園。
築山のモチーフにしたのは日本一の山 富士山頂上にある溶岩は実際 富士山から運ばせたもの。 彌太郎が 富をつぎ込んだ名庭園の数々。 彌太郎さんが生きてはったらもうネットとかで通販で 石バカバカ買ってはるんじゃないですか。 例えば 原 三渓なんていうのは生糸貿易で財を成して今 本牧の三渓園っていう大きな庭園 造ってますよね。 大名庭園が自分のものだというのが言えるってのがね。