団塊スタイル「東北を熱くした“優しき闘将”~星野仙一(69)〜」

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この番組のまとめ

2011年3月11日東日本大震災が発生。 あと1球あと1球!決まった!星野さんと楽天の選手たちはその誓いを実現させ東北の人たちに勇気と元気を与えました。 まずは 楽天の監督になってから日本一に輝くまでの軌跡をご覧頂きます。 2011年3月11日楽天イーグルスは公式戦開幕に備えて兵庫県でオープン戦を行っていました。 東日本大震災の発生です。 星野さんと楽天の選手たちはいくつかの班に分かれて避難所を訪問しました。 それは 初のリーグ優勝と日本一という奇跡を掲げてみせる事でした。

で 3年目にしてもう この2年間でお前たちの被災者に対する優しさというのは午前中 起きてそれで小学校に慰問に行ったりそして球場にそのまま入ったりとかそういうふうな形で「これで大丈夫かな」と思いながら。 結果が出なかったら 俺は腹を切るという事を もう宣言して自分に プレッシャーかけながら選手と闘ってきましたね。 父親のいない家庭で 星野少年は2人の姉とともに母子家庭だったがゆえに敏子さんは 優しくも厳しく我が子に接しました。

星野さんは 遅咲きのピッチャーだった山本さんを常に叱咤激励したそうです。 星野監督は 熱血指導によって中日ドラゴンズを2度の優勝に導きます。 しかし その陰には星野監督の細やかな心配りがありました。 そんな星野監督も中日を退く時が来ました。 学生時代国井さんもご存じだと思いますけど現金書留というのがありますよね。 その現金書留全部残してたんですよ。 何月何日いくら何月何日全部残してたんです。

ただ 選手とか裏方の皆さんの奥さんの誕生日にはちゃんと その誕生日祝いで花束を贈ったり。 星野さんが小学生時代を過ごした第四福田小学校です。 「星野君と定金君」。 星野君と同じクラスにいた定金君は筋萎縮症という難病で歩けなくなっていました。 そんな定金君を 星野君が背負って学校に連れていく事になりました。 聴覚に障害を持って生まれた高田裕士さん。 聴覚障害者のオリンピック「デフリンピック」の陸上競技 日本代表です。 小学校の時に2年間 定金君をおんぶして通われたお話が出てきましたけど。