この教会の牧師奥田知志さんです。 これ 本当に大きな建物なんですが総木造建築なんですね。 「軒の教会」というテーマで 軒を一つ大きな意味合いと言いますかね建物の中心に据えた建物なんですね。 玄関から この向こうまでですねここが大軒でして日本の建物からだんだん軒がなくなっていってるっていう時代の中で 軒ってやっぱり人との出会いの場所だったんですね。 「こんな変な建物ない」ってよく言われるんですけどもここが この建物の何ていうんですか 中心というか礼拝堂の壁は 全部これに統一されてるんですね。
この光の設計をして下さった方がやっぱり自然光を採り込んでるんでその自然の光と人工の光のバランス等で今 白い光になってますけどこれが ブルーの光にこう 変わってきてですね。 20数年 路上の人たちの支援をしてきたんですけども大体 路上で亡くなると7割8割が無縁仏 誰も迎えに来ない。 一旦 地域生活に入るとですねそれこそ9割以上の人が生活を継続していくと。
例えば 85年に派遣法という法律ができます。 日本最大の寄せ場日雇い労働者の町だった。 その時に 日雇いの労働者が「派遣法反対」って言ってチラシを刷って まいてたんですね。 当時 いわば インテリの学生である私にしてみたらですねこのおじさんたち 派遣法読んだ事ないんじゃないかと思ってたんですね。 で そういう使い捨てにされた人たちがですねあの派遣法 読んだ時にあっ いずれ この法律は全ての労働者がそういう憂き目に遭うというそういう直感があったんでしょうね。
今 景気が良くなったって言われて22年ぶりに 有効求人倍率が今 1.1倍。 当初80年代 これが始まった時には就職支援であるとか アパート設定。 で 一番我々の この教会のコンセプトのベースにもなった教わりながら確信をもってこられたっていう。 奥田さんが 初めてホームレスの現実に直面したのは学生時代 大阪西成区通称 釜ヶ崎での事でした。 「奥田 あれ ちょっと起こしてこい」ってその労働者の人から言われてですね1人だけが 布団の中に残ってて。
その一人との出会いができない活動というのはそうじゃなくて いや 「山田さんの人生は」っていう話をしないとNPO法人「北九州ホームレス支援機構」の設立を決断。 佐賀バスジャック事件 西鉄バスジャック事件っていうのが起こる。 児童相談所 教育相談所さまざまな所に回ったけども一人もいらっしゃらない」。
当時 インターネットが普及し始めた頃だったので世界中に我々は応援を求めて配信をして浦野さんっていうですねもう当時60歳過ぎてましたけど彼が割って入ってきてですね市の人を指さしながらですね「あなたたちは 去年の冬 12月私が駅で寝ていた時に何をしてくれましたか」と。 そんな中 NPOの理事長として多忙を極めていた奥田さんに牧師としての生き方を問われる出来事が起こります。
キリスト教の 例えばイエスご自身で言ってもですね私は こういう信仰のあり方の決定的な違いはイエスが十字架にかかる前の夜ですね彼は自分が十字架にかけられるっていう事を予想してまして非常に苦しみもだえるわけですね。 「この盃」っていうのはイエスに与えられた運命ですね十字架にかかるっていうその事です。 それは 信徒の方たちがおっしゃってる教会を傷つけたくないっていう一心で一生懸命 動いたけども最も傷つけたんですよ。
「奥田さん もう あれ何とかしないと小屋で一人暮らしは無理だと思う」っていう話があったんですね。 当時の北九州市は 今はですね北九州市は ホームレス状態の人も生活保護の申請ができるようになったんです。 これ 日本で一番進んでいる市で当時はしかし 北九州市はもう残された手はですね 入院するっていう手しかなかったんですね。
それは何かと言うとバプテスマを受けてクリスチャンになるという事の第一の意味は高みに行くんじゃなくって「死に至るまで十字架の死に至るまで従順 人間であった」って書いてあるんですね。 しかし 彼が バプテスマを受けようとした その大きな動機の一つはそれまでは「俺は所詮 こんな人間だ」って開き直っていた人がなまじ反省し始めた。 そういう不完全な人間に対してイエスは 「隣人になれ」っていう課題を与える。