こころの時代~宗教・人生〜「禅の語録を読む」

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この番組のまとめ

中国語学・中国文学研究の大家で禅の語録の現代語訳をしていた入矢義高氏の研究グループに加わって大学院時代から 唐代・宋代の語録に取り組みました。 長年 禅の語録を読み解いてきた小川さんにそもそも なんでそういうものをですね現代の中国語を教えていらっしゃる先生がそういう昔の中国の もう千年以上も前のような時代からの語録を読むようにおなりになったのかその辺のいきさつからちょっと聞かせて頂けませんでしょうか。

事跡と問答を記録している書物ですけれどもそれの訳注を作る会がそれに石井先生が 以前から行っておられたのに 誘って頂きまして一緒に連れていって頂くようになりましてふたつきに一回ではございますけれども約10年間 入矢先生の謦咳に接する事ができました。

一日3回ごはんを食べる事は大部分の日本人に該当しますし大部分の日本人にとってとても重要ですけれどもじゃあ 日本人の特徴はと言われて一日3回ごはんを食べる事というのは おかしゅうございますよね。 じゃあ 他にあまりなくて禅宗に特徴的にあるものは何かというと 「問答」ではないかと。 そこが誤解のもとで「質問と答えが 全然トンチンカンだ」というようなところで「禅宗の坊さんが行う問答のように当事者以外には 何を言ってるか分からない」というふうな語釈が書かれております。

そして これは現に問いと答えの間に脈絡のないトンチンカンな禅問答の代表のように取り上げられるものの一つではございますがこれにつきましても先ほど申しました入矢先生の入矢先生のやり方といいますのは常に宗教的なとか 哲学的な解釈をそこへ持ち込まないでとにかくまず その時代の中国語としての 文字どおりの本来の意味は何か というところを予断なく確かめるところから始める読み方をしてらっしゃいました。

趙州禅師という方の問答ですがこれも先ほどと同じく 質問者は「如何なるか是れ祖師西来の意」と問います。 ところが これもですね実は類例が 「趙州録」趙州禅師の語録の中にございましてこれ 恐らく もっと初心者である僧侶が聞いたとおぼしき問答が初心者が「私の自己とは何でしょうか」と。

入矢先生は その同時代のあるいは前後の時代の字面は似ていなくても問題意識が共通しているあるいは問題意識が関連しているという問答をですね膨大な読書量の中から探し出して突き合わされて初心者向けのものが見つかってヒントになるという事がございます。

「『如何なるか是れ祖師西来の意庭前の柏樹子』こういうふうに理解してはいけない」。 その 言ってる問答同じ問答を2回引いて「『如何なるか是れ祖師西来の意』こういうふうに理解しちゃ駄目だ『如何なるか是れ祖師西来の意庭前の柏樹子』こう理解しなくちゃいけない」。

で 白隠禅師自身は この無字の公案で悟られたんですけれどもご自身が修行僧の あるいは修行者の指導をしていく中で先ほど おっしゃいました「隻手の音声」という公案を自分で考案されまして「両手を打ったら音がする」と。 文字禅というのは公案があってそこに 言葉でコメントを寸評をつけたりそれから 問答の趣旨を表す詩を作ったりですねあるいは 問答と詩をセットにして講義をしたりという事で文学的に公案を解明するというふうなスタイルこれを文字禅と申しまして有名な「碧巌録」「無門関」などはその文字禅の作品の成果でございます。

で 「正法眼蔵」和文の「正法眼蔵」というのはみんな 公案をそれぞれ取り上げてもちろん 中国の文字禅のスタイルとは大きく違いますし思考も異なっておりますけれども日本語の和文で公案の趣旨を独自の思考で展開していったものが「正法眼蔵」でございますから広い意味ではですね中国のものとは異なりますけど広い意味での文字禅の作品と言っていいものではないかと思います。 大慧は圜悟の弟子ですけど「圜悟大慧より この方 公案提撕の方便を設け給へり」と。

一つのスタイルでそのままの その即心その 言ってる心そのものが仏様の心と通じるんだというようなところでおっしゃいますけれどもそうしますとですね私 勝手に考えているんですが今の人が ありのままの自分を出すと言ったって大体 ありのままの自分なんて自分の塊なんて ないんじゃないかと思うもんですからその辺が どうも馬祖のおっしゃる そのあれだけ苦労をして気が付けよとこれだけ 自分自身…今 生きてる自分の心に気が付けよとおっしゃるのとそれから 現代の人がですね俺は ありのままに生きるんだというそれこそ煩悩丸出しの生