こころの時代~宗教・人生〜 アンコール「第二の誕生」

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この番組のまとめ

日本語の中の漢字というのはいろんな意味があって非常に それぞれの意味を考えると面白いんですが志慶眞先生がお話しになったものが記録されたのを拝見しますとそのお話の頭で「生活」というこれの「生」と「活」の意味はどういうふうに解釈してどういうふうにお話しになっていらっしゃるのか。 人間が生きるという事は結局 生活してる事なんですけど僕は 「生」と「活」という事に一つ意味を見いだしまして我々は 日常生活でパンを手に入れないといけないと。

それで僕は 結局 大学を卒業して1年間 浪人して物理の勉強をして 広島大学の素粒子の実験の研究室にたまたま運良く通ったという。 ところが 広島に行って修士課程 終わって博士課程へ行ったんですけど結局 物をいくら追究しても「どういう具合に」というのは分かるけれども「How」というのは。 その時に 少しずつ自分のかたくなな心が解けてきて「もし医学部 通ったら細川先生の話 聞いてもいいよ」という約束をしていたんです。

「歎異抄」の会に出た時に自分は ちょうど医学部に行って沖縄に帰るまで6年間どんな事があっても「今日は夫婦げんかした」「今日は おなか痛い」「頭が痛い」とかそういう事があってもそれは さておいて6年間は…。 ただ初めは この親鸞の教えに触れてないもんですから分からない事だらけで 細川先生の先生だった住岡夜晃先生がですね。

それが 私が話聞いておりました福岡教育大学の細川先生とその教え子であった関 真和先生。 前後しますが大学四年の時 父がなくなりその時 先生にいただいた『日輪没する処明星 輝き出ずる如く人生の終焉は 永遠の生の出発である』という ことばは釈尊と 連綿とつらなる深い歴史観を頂きました。 平成五年六月二十四日関 真和」。 これに対して細川先生が 2日後の26日 またお手紙を書かれました。

冷たい目で 世間を見て人を見て先生を見て 仏法を見てですねその時 初めて 僕はですね今まで 自分の中に煩悩があると思ったけどこの身は 煩悩のものだと。 そこまでいくと 煩悩の塊が自分であるというとこまで気が付くと その煩悩自体も自分が妄想を勝手にそういう事なんですね。 志慶眞先生にとってはドイツのマルティン・ブーバーのブーバーの考え方について お話を聞かせて頂けませんでしょうか。 このマルティン・ブーバーの話に出会ったのは実は これも細川先生のお話の中でなんですね。

だから その「なんじ」というのは自分のあるべき煩悩の姿に気が付いた時に 初めて私が「それ」として言ってるけれども…これは 区別できない世界ですね。 煩悩というのも自分で気が付こうと思っても真っただ中にいる場合には 煩悩に気が付く事ができない世界にどうも いるみたいですね。 そうであるならば 本来の一如の在りようの無相の世界が関係づけられて私の上に届いてる世界。 僕が往復書簡でぶつかったのはそれまでは ずっと分別の世界。

そこが初めて 僕の上に「われ―それ」という世界から私は仏法を聞いてるけどもこのブーバーの教えによってもう一つ 実は唯識学の背景があるんですけど自分は なんて駄目な人間だろうと卑下したくなるという心配もあるんではないかと思いますがそういう自分の いわばマイナス面に気が付いた時にどういう処理のしかたといいますか 対応のしかたこれは どういうふうに処理なさっていらっしゃるんでしょうか?一つ 詩を紹介したいんですけど私が 以前に書いた詩なんですけど。

自分が生かされている命に目が覚めて普通ですがね それがひっくり返ってるわけですね?そうですね これは清澤滿之先生の言われた言葉なんですけどそこに 人事を尽くす事は同じなんだけど自分の正体が分からないでただ一生懸命やるという事は実は迷いではないかと。 でも そうですよね 一生懸命いろんな勉強をされたりこうかしらああかしらという事でいろんな探究を いろんな方向でやってこられて結局しかし それがむなしく過ぎたという事になる?そうですね。

でも私は 煩悩の身ですから死ぬまで「われ―それ」の世界しか生きようはないんだけれども。 実は そういう自分というのは私が あれとか これとか分別する以前に 「もの」というのは一如の大きな一つの世界なんだと。 その世界に気付いた時にそこで あれとか これとかあげつらっている自分の正体がはっきりするんですね。 その時に私に 「南無阿弥陀仏」という言葉が初めて今までは 「それ」として自分の方から理解しようと思ってつかもうと思っていたけれども向こうの方が私に呼びかけていたと。

「みんなそれぞれ バラバラに一人で生きてるんだ」と思うそういう思い方と「私は生かされているんだ」と自分で生きていると思っているけれども本当は自分の頭で考えたとおりには全く 生まれてくる時も死ぬ時も思ったとおりにいってるわけじゃなくて違う働きの命の働きによってそうなっているわけで「生かされている身である」と考えるかあるいは 一人一人生きて一人が死んだらおしまいよと考え方が だいぶ変わってくるわけでございますね。