バルトルディが目をつけたのはエジプトに建設中のスエズ運河でした。 スエズ運河の建設が進んでいた19世紀半ばバルトルディは運河の入り口に灯台を建てようと思いつきます。 バルトルディは野心を果たせないままフランスへ帰国します。 ラブレーはアメリカの自由と歴史を賛美しアメリカ政府とフランス政府の同盟を推し進めようと働きかけた人物でした。 19世紀半ばのフランスはナポレオン3世のアメリカの自由をたたえフランスの指導者たちに当てつけるためです。
デレオは1972年から99年までの実に27年もの間自由の女神像の保守管理を任されていました。 フランスの彫刻家フレデリック・バルトルディは9年を費やし パリの工房で自由の女神を造り上げました。 アメリカの資金調達委員会が集めた金額では10万ドル足りませんでした。 フィラデルフィアやボストンには虎視たんたんと自由の女神を狙っている人たちがいました。 ピュリツァーは台座を完成させるための資金台座の建設はアメリカの建築家リチャード・モリス・ハントに託されました。
実はバルトルディは ある秘密結社とつながっていたのです。 自由の女神はアメリカを支配しようとしている秘密結社のシンボルだと恐れる人々がいました。 その最大の秘密は彫刻家でフリーメイソンのメンバーだったバルトルディが女神像のデザインに盛り込んだあるシンボルです。 完成までの長い年月の間にバルトルディは女神像のデザインを幾度か変更しました。 バルトルディは新たに人々の興味を引くためデザインに趣向を凝らす必要があったんです。
女神像完成の20年後に取り付けられたのです。 自由の女神は生みの親 バルトルディが想像すらしなかった形で自由のシンボルとなっていきました。 自由の女神像はどのように警備されているのでしょうか。 観光客をできるだけ女神像の近くまで連れていこうとします。 アメリカで最も愛されているモニュメントを攻撃しようとたくらむ者にとって沿岸警備隊は効果的な抑止力となっています。 自由の女神像はマンハッタンの摩天楼を背景にリバティー島という完璧な場所にそびえています。 要塞の上に建つ自由の女神像は高さ93メートル。
バルトルディは女神像は港を照らす事になると豪語していたので困り果てました。 女神像全体を金で覆う事を提案しました。 雨風にさらされた女神像は茶色から青みがかった緑へと変わり最終的に現在のような色に落ち着きました。 現在 自由の女神像の内部はメディアによる撮影が禁止されています。 王冠にはここから上がるんですか?女神像の内側は外側に負けず劣らず大変 興味深いものです。 エッフェルは女神像を支える骨組みを造る事を引き受けました。 しかし エッフェルは巨大な女神像を気に入ってはいませんでした。