そういう地域だったなという思いが日本が初めて経験した 大量の放射能の拡散を伴う原発事故。 村は 放射能によって汚染されていました。 人口およそ6,000人の飯舘村を放射能が襲ったのは放射線量の把握を行っていました。 むしろ 事故直後の高い線量の時に若い方々とか小さな子供たちはむしろ 避難させた方がよかったんですよね。 事故直後から 放射能に強い恐怖を感じていた人もいます。 事故から2週間後 まだ村全域の詳細な汚染状況は誰も調べていませんでした。
阿武隈山地の過酷な自然環境の下人々は 山あいの僅かな平地を開き田畑を築いてきました。 菅野義人さんは避難指示が出たあと絶えず みんなと一緒にいろんな事をやってきたという事ですから。 義人さんが 村を離れたのは避難指示から3か月後。 地域の仲間の避難を見届けてからでした。 それを放って 自分の安全のために避難していいのかい。 だけど 私が…そうすれば 全村避難実現できねえわけでしょ。 人々は 避難によってちりぢりとなりました。
来春 放射線量が避難基準を下回ったなどとして国は 村の大部分について避難指示を解除する方針です。 避難解除となれば東京電力が支払う賠償は段階的に打ち切られる見込みです。 村会議員を務めていた菅野義人さん。 結果を国に報告し屋敷林の土壌の剥ぎ取りなど地方議会議員の役割なんだって思いましたよね。 そうすると 今 こんなに国の予算で 除染事業も復興もやってるという時に本当に 村民の意思を反映できるのか。
そういう人たちが 将来何に頼る?やっぱり お金しかないというふうに考える事だって定期的に飯舘村に通い調査を続けています。 この日も 村内全域で放射線量を測定しました。 その放射線量は 30年でおよそ半分に減少します。 京都市に避難した山田 豊さん。 来る前から 一番上の子が小学校に上がる タイミングで貴重な体験 それこそね。 じいちゃん ばあちゃんも元気で いてくれたからこそのうちらが こうやって勝手に京都に来させてもらって豊さんの父 山田猛史さんです。
それまでは 我々が ちょっと頑張って 方向性と言うんだか可能性は あるんじゃないかなと思うんですよね。 菅野義人さんは 飯舘村に残した自宅の改築に取り組んでいました。 このうちを造った時にやっぱり もちろんうちなんかも 新しくして次の代に バトンタッチする事もできるんですがこの地で長い事 何世代にもわたって生きたという そういうふうなものを 後世に伝えたいと。 でも 一方でそういうふうに思う気持ちがむくむくと出てくると「飯舘村の土地は じゃあ お前どうすんの」みたいな声が自分の中に出てくるんですよね。
だって専業農家として やってきて後継者が…後継者という言葉 おかしいな。 北海道での長男 義樹さんの再出発。 「前向きですね」とか「非常に覚悟ができてますね」って言われるんですがそれはそういう気持ちがないからそう言って 自分を律するみたいなところがあるんですね。 原発事故から5度目の大みそかを迎えた 綿津見神社。 北海道に移住した 菅野義樹さん。 北海道に渡り 半年後に家族を呼び寄せました。
そして 一番言いたいのはそれぞれの人の選択に対して我が国の 日本国の政府は東京電力はちゃんと面倒を見る責任があるという事を改めて強調しておきたいと思います。 飯舘村に当面帰らない事を決めた菅野慎吾さん。 こっちさ 母屋やってこっちさ 車庫やって車庫と母屋の間ちょっと空くからここさ 浄化槽 入れっかなと思って。 京都市に避難した山田 豊さんの一家。 悔しい思いとか 悲しい思いで亡くなった方に対しても菅野義人さんの暮らしていた比曽地区でも廃棄物が積み上がり始めていました。