こころの時代~宗教・人生〜「何をおそれるか―本来の私を生きる―」

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この番組のまとめ

この日 招かれたのは山形にある基督教独立学園高校前校長の安積力也さん。 安積さんは 思春期の生徒たちと学び合いながらそれまで それこそ40年以上も高校生中学生…久しぶりに東京に戻ったわけですね。 それは 簡単に言いますとねまあ そこは 日本ではいわゆる 進学校の良い学校と呼ばれるところで多分 多くの その子たちはこの国の いろんな分野のリーダーになっていくような事が嘱望されるような高校生だったろうと思います。

それは要するに今の我々 大人の世代それは 政治家 含めて結局 本来は自分が引き負わなきゃいけない自分たちが引き負わなきゃいけない課題とか重荷これはね… まさに こう本当に 心の中にある苦しさを生きる生き方というのを社会情勢もそうですから 余計にそういう感じがしてたんですがふっと思ったんです。 あれ 1年ちょっと前まで私がいた あの山形では人知れずですけれどもあんなに こう生き生きと私の持っている現実感覚っていうのはリアリティーの感覚がね ちょっとね二重構造に 今 なり始めてる。

ところが 辺境っていう言葉に近い言葉でアメリカの西部開拓史時代に生まれた言葉だろうと思うんですがこれは むしろ 人間の力の限界今の力の限界の領域を指す。

その時に 本当に 大学時代に「聖書」の真理に捉えられて存在を委ねて 赦されて生きる世界っていうのを知った事が本当 恵みで 「祈りの世界」って言ってもいいんですがそういうところに立った時にもう駄目だって 逃げようって自分が こうだと思ってるものが壊れそうになるとやっぱり なんとか防がないと自分が駄目になるんじゃないかというふうについ 思いがちだと思うんですがそれを克服した実例みたいなものがあればちょっとご紹介頂けませんでしょうか。

これは 「クラス通信」と言いまして親御さんたち みんな外ですので親御さんたちに向けて出すクラスの通信を担任の先生が出されていつ死んだって おかしくない。 そして 人との関係では一生懸命 労働しますし生きようとしてる姿のその子の落差みたいなものはずっと見てたもんですからその絞り出すように 彼が言った「僕は いつも死のうと思っていたんです」っていうのはビーンと分かる言葉でした。

神様のなさる業って 私は言った時に 自分の中にストンとこの出来事が 真実が落ちるという自分になってしまいましたね。 今のお話を伺ってますと本当の祈りというのはそういう人間のギリギリのところを超えたところで出てくる自然に出てくるしかも 言葉にならないような自分の気持ちを分からない相手に伝える。

どういう ぶつけ方をしたかって言いますとあの… また「聖書」の話で恐縮ですけれども「聖書」はですね私の感覚で言いますとですねまるで あの パイプオルガンの通奏低音足鍵盤でやる ず~っと鳴るそれで… でも おそれてる現実があるわけですよ。 それでね この課題はねいわば ほんとは独立学園の生徒でも避けたかった子が多かっただろうと思うんですがね図星だったようなんです。

10月という年が秋の保護者会っていう年でして。 3年生の時 最後の保護者会になります。 いろんな…ご両親だけじゃなくてそれこそ一族郎党で来られたりして本当に にぎやかな楽しい保護者会なんですが。 そこに 教師も全員保護者たちの方も 全員 座ってそして そこで 教職員と保護者の懇談会っていうのを開きます。 え~とですね… ある お父様このお父様は キリスト教信仰をお持ちになっていてそして 本当に落ち着いた形で保護者会に臨み続けられたお父様です。