こころの時代 アンコール「釜ヶ崎で福音を生きる~神は小さくされた者の側に〜」

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この番組のまとめ

カトリックの修道会フランシスコ会の日本管区長に選ばれ初めて 釜ヶ崎の野宿者の夜回りを視察した時の事です。 一人の労働者がかけてくれた言葉それが 自分を解き放ってくれた気がしたと言います。 それは 本田さんにとって今ここで生きる 釜ヶ崎の場からもう一度 イエスの言葉福音の真のメッセージをつかみ取る作業でした。

じゃ 本人は 何が一番望んでるのっていうふうにゆっくり尋ねたり話し合ったりしていくとやっぱり大した日当にならないとしても自分で働いてそして 賃金もらってその もらった金でのれん くぐって一番安いメニューでもいいから「サンマと大根おろしの一盛りでもいいけどもまあ ご飯は大がいいかな」とか言ったりしてね。 ここ 三角公園では 週に2日ボランティアたちと労働者自身の手による炊き出しが続けられています。

アブラハムについて聖書が語る時もアブラハムが父の住んでいた国そこから外に出て難民になって ウロウロしていくそこで 神は アブラハムを選びました。 そしてその時 はっきり言ってるのがまた 神の言葉として記録されてるのが…だから 難民で 自分の財産も全部 置いてきてしまって何もない… そんな状態にいる一番貧しい者の一人であるアブラハムに向かって迎え入れる…祝福するものを神も祝福します。

だから 当時姦通罪っていうか姦淫を犯した者は石殺しだっていう…モーセの律法ではね。 だから ふだんから まっとうなモーセの律法を守るユダヤ人たちの目から見たらあいつは食い意地の張った酒飲み。 それから徴税人や 罪人の仲間。 つまり敵対する ローマ帝国側に立って同胞のユダヤ人から税金を取ってそれをささげる徴税人の役割。 普通のユダヤ人 一般が就けるような職業例えば農作業とかぶどうの刈り入れとか麦を植えたりなんだりするとかね。 つまり そういう人々の中にイエスは身を置いて行動したという。

正しいからとか 間違ってるからとかって そんな事よりも「自分が共感してしまうものの苦しみを共感し当時の ローマ帝国の一つの属国としてのイスラエルを厳しい律法で人々を縛り罪をあがなうとして神殿に 多額の献金や供え物を要求する貧しい人々を排除する宗教指導者たち。 エルサレムの神殿に乱入したイエスはその後 捕らえられ大祭司たちによって裁判にかけられ十字架へと送られます。 その「包丁」っていうのは珍しく普通 聖書に出てこないのにと思うかもしれないけどギリシャ語で「マハイラ」「マカイラ」っていう。

それと関連してると思うんですがまた 福音の言葉に戻ればこれを人を人として大切にする…「人を大切にする」というふうに訳し直していますよね。 隣人を 自分と同じように大切にしなさいっていう。 これは 結構 「自分と同じように愛しなさい」という言葉で大体インプットされてる事が多いんですけれどね。 隣人の コンテクストからいってね。 「隣人を必要としている人の隣人に あなたがなる」ってあなたが なって下さいよ」っていう。