新世代が解く!ニッポンのジレンマ「ポリティカル・コレクトネスのジレンマ大研究」

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この番組のまとめ

アメリカにおける ポリティカル・コレクトネスPCって1960年代の公民権運動の中から生まれているわけですね。 アメリカでは人種差別の問題から生まれてその後 どういうふうにPCは展開していったんですか?教会であるとか 病院だとかテレビ局であるとかそういったところがフェミニズム運動とかと協力して抗争行動というかこういう言葉は こういう言葉に直しましょうね みたいな形で作られていったというのあります。

個人的に 当時のアメリカのコレクトネスと日本での コレクトネスというものがどういうものなんだろうって考えた時に日本の場合のコレクトネスって 秩序を守ろうとか 議論を避けようとかできるだけ対立しないように空気を読もうみたいなところがすごくあるなって日本と海外を行ったりしながらすごく感じるところでそれが 表現の方法というところの表面上のみで入ってきた時に私たちは ハーフではなくダブルと呼びましょうとか障害者の害は 平仮名で書きましょうとかっていうのが あるけれど結局 そこに こだわっていない人たちも 実際 い

あるいは 大変な社会問題が起こったんで俺 ツイッターでリツイートしておきますねみたいな リツイートボタンを押してここを変えない事には 多分言葉を いくら いじったりしてみんな 平等で いきましょうとかっていうメッセージを出したところで何も 解決にはならない。 僕はボランティアで ずっと介護の仕事に入っていたんですけど彼らは 障害者の「害」の字をひらくという運動に対してむしろ 漢字の障害というものをカギカッコで 目立つようにして私たちを 手足のように手伝う存在である というふうに逆転させて 言葉を。

ただ それは 結局もう一回 話を戻すと日本における 最終目的である根本的な解決それは 達成はされてないとは思いますけどね。 それは日本では やっぱりアメリカのような運動の歴史とか人種問題が なかったからっていう事なんですかね?っていう感覚だったんですね。 誰かを傷つけるかもしれないけどそれは自由として大事だという原理原則が あるんだけれどもそれが いきなり宗教になると日本は宗教の事を言っているってこれは 駄目だよねっていうふうになる事自体僕は よく理解できなかったんですよね。

でもアメリカだと さっき変な写真で再現されていた 「ズートピア」とか最近の 「ファインディング・ドリー」とか結構 障害とかいろんな差別とか描いた作品がアニメでさえもあるわけじゃないですか。

「寛容」はtoleranceと訳されるがこのtolerance 辞書で引くと第1の意味は 「我慢」。 でも そもそも文学って政治と共に出発していて例えば 明治期の日本が近代化していく時に国のビジョンを どうやって描いていくかっていう時にそれは 論文とかマニフェストで書くとほとんどの人が理解できないわけですよ。

つまり一般の人に流布するために政治的なメッセージが しっかりしてる文学作品ほど良い作品だって言われていて。 とにかく 政治的価値ばっかりみんな 追い求めてるけどそもそも 芸術的価値というのをもう一度見直すべきじゃなかろうかって僕らからしたら当たり前ですよね これ。 だから ある種のツールとして使われてきたような 芸術ジャンルをこと 日本においては 70年代以降純粋培養し過ぎた結果僕らは それ以降を生きているので政治が入ってくると何か異物混入されたみたいな感じで拒絶感が強いっていうのはあると思います。

それが 中学校の頃から普通にあるというものに私は すごく当時びっくりしていたんですけども日本の学生と仲良くする時には政治の話を出さない事が一番だと言っていてうちの研究室 来て1対1で 5時間ぐらい政治について語って帰っていったんだけどこの5時間 俺と政治についてしゃべれるんだったらもっとやれよって思うんだけどそれが 一番タブーになってて学生同士 仲良くするためには。

これが仮に日本流コレクトネスの作法だとしても世界には どう見えるのだろうか?激しい波が ぶつかり合ってこそ均衡が生まれると考える人々に理解されるのか?海の向こうへの想像力が 今島国の文化に問われている。 だから 何か一回駄目でももう ワンチャンス あるのが民主主義なんだからもうワンチャンスも何チャンスも やり直しが利くのが 民主主義だから今回駄目でも次ね 勉強すればそれこそ いいじゃないって。 民主主義ってそういうものじゃないですか。

これ 丸山眞男が言ってるんだけれども政治に対する オール・オア・ナッシングの態度っていうのは政治的な リアリズムからすごく遠くて本当は 少しずつ少しずつ変わる変えるために 日々 継続的に生産化する事こそが政治的なリアリズムだって言うんだけれどもあれ すぐ実現してくれよみたいな形になってそれ 1年で実現しないよっていう形で まあ待てっていうんだけどでもやっぱり 結局騙されたくないから 今度は騙されたくないから人間のリアルを見据え免疫力を鍛えて。

これは誰でも言うんでしょうけどポピュリズムがすごく嫌な言い方で言うと衆愚政治みたいな形になってしまうという危険は常に 隣り合わせになっていてお祭りが終わるとともに 収束するっていう危険性は あるので。 日本で ちょっとはやったりもしてるんですけどもすごくオシャレなものとして流通してるんですけどもともとZINEって アメリカで80年代の終わりから90年代の頭ぐらいにとにかく男はムカつくみたいな感じで。

ポリティカルというのは やっぱり日本においては 機能しないって話を「常識的に考えて」だなみたいな感じで略したりするじゃないですか。 山本七平が言った空気の研究じゃないですけどやっぱりそれが日本を支配していて政治的な正しさというものよりも常識的に考えた正しさというのが上に来ちゃうんですよね。

再び とある辞書によれば大体 国語の教科書で 母親が家で家事をしていたりとかお手伝いをするのは娘さんだったりとか保健の教科書とか道徳の教科書になると異性を好きになるんだよって書いてあったりとかそういった挿絵が出てきたりとかそういったものがずっと続いていくとそうじゃないものって無いのかなっていうような考えになってくると思うんです。 かえって 教科書とか いわゆる市役所のポスターみたいなものよりポップカルチャーの方が ずっと柔軟性が実はあるんじゃないかなと思わせられる時は ありますよね。

そして 多分それは 政治に関する知識でも 同じような事が言えて例えば あんまり人の居ない所で過ごしてきて多様性みたいなものを認識できないままちょっと排外主義的なというか差別的な振る舞いをしちゃったと。 でも それって一個一個の事例 経験しながら慣れていくしかなくてでも これからって日本って移民も増えていくし外国人も増えていくしLGBTの問題とか 女性問題って多分 避けられないからこういうPCの問題って アメリカほどいくかどうか 分かんないけれどこれからも ますます盛り上がっていくと思うんですね。