画家 諏訪 敦は 古典的な写実絵画の技法を使いながら常に挑発的な作品を発表し続けてきた。 今は亡き娘を描くにあたり諏訪は 膨大な遺品をあらため聞き取りを進めた。 諏訪が描こうとしているのは終戦直後中国大陸で死んだ祖母である。 諏訪が生まれる20年以上も前に死んだ祖母に諏訪は もちろん会った事がない。 平成11年 父親が がんで死亡する直前 諏訪に手記を託した。 手記によれば 諏訪の父の家族は山形で 和菓子屋を営んでいた。 「五族協和 王道楽土」をスローガンに国策として進められた。
満州に取り残された人々の中に諏訪の一家もいた。 ソビエト軍に追われ略奪の恐怖に おびえながら逃避行の末に たどりついたのは難民収容所だった。 ちゃんと その時 その時特に過酷な状況で必死になって 子供を守って我々に つないでくれたんだな旧満州 中国東北部。 諏訪の家族も ほとんど着のみ着のままで脱出したと見られる。 諏訪は また少し祖母の感触に近づいた。 逃避行の末 多くの開拓民は難民収容所に身を寄せた。 諏訪は家族の写真を見せ記憶にないかと尋ねた。
新香坊収容所で鈴木さんたちの開拓団に潜り込んだという。 新香坊収容所のあった場所へ向かう。 戦後 収容所から生きて帰った人たちが作った地図が手がかりだ。 あの煙突の立っとるような所から1棟 2棟といってね2~3におったね 千代開拓団は。 収容所に 最後までいた子供で生き残った子供というのは少なかったんですか?「元気いっぱいだった弟の具合が悪くなっていきました。 収容所で死亡した人々が埋葬された場所を鈴木さんが覚えていた。 新香坊収容所で死亡した人は3,338人を数える。