今回のポイントはどういうところにありますか?そうですねブッダが入滅を決意してその間に さまざまな教えを説くという事で そういう意味では経典の中で 全体的に最後の教え遺誡 遺言はちりばめられてると思いますけどもまず今回は いよいよ最後の入滅の間際の ブッダの言葉というものがどんなものであったかという事を見るという事でありますけれどまあ 同時に ブッダがその最後に残した教えから我々は何を学びとるのかという事も広く 考えていきたいと思っておりますね。
それを察しながら しかし自分が亡きあとは という形でもって私の教えをしっかり実践しなさいという何か非常に自然な 最後の場面が映し出されてるなと思いますけども 文字どおりブッダの教えが師となるんだからこの2つだったと思われますけどもそれが師となるんだからその師となるべき教えと戒律が正しく弟子たちに伝わっているかどうかという事が気を落とすなというそういう 何か ブッダの心がかつ 正しく実践してその結果として 最終的に皆一人残らず で この「最後の修行僧は」っていうのはこれは注釈の中では これがアーナンダだと言
ですから 「パリニッバーナ」というのは必ずしも そういったこの分類の中で最初 使われた言葉ではないかもしれませんけど後代は パリニッバーナというのは無余涅槃という事で肉体の束縛のない涅槃という事ですね。
他の人たちと一緒の場合も何か 事に触れて大拙が考え始めるとこの写真のように 一人になって考える 大拙の静かさには同席の人たちは大拙の存在を忘れる」とこういう語っているところがあって何か この大拙という一人の人間が大自然と溶け合うというそして その周りの人間が忘れるくらい静かな大拙の存在というのは何かですね見るような気がしましてこれを通じてブッダの死を考えるというのも一つの道筋として あるのかなと。
その新しいタイプの「涅槃経」にも歴史がございまして その中で割と この新しくなってから出てきた部分には明らかに沙羅双樹が4本あってまあ 何で増えていくのかという中には 教理的にですねブッダのその古い教えといったら諸行無常であるとか諸法無我であるとかですね否定的にですね 物事は移ろいゆくものだというこういう考え方がベースにあるんですけど大乗仏教になってくると 例えばブッダは永遠であるとか涅槃は いつまでも すばらしい平安の境地で「常・楽・我・浄」という言葉がございましていつまでも変わりゆく事なく見ようとする
その「目覚め」の中に 何かやっぱり 「慈しみ」の全てが仏教が果たすべき役割としてあり思想的な可能性としてあるという点が多分 中村先生 亡きあとも先生のおっしゃってる この平和ブッダの つまり その教えの可能性といったものをこう 信じたいという気持ちが非常に強いんですが丸井さんご自身のブッダの言葉の中で何か お好きな言葉ございますか?今日のお話の中でも「生死を乗り越える」という対立的なものを いかに乗り越えるのかというのでそれが 「中道」という言葉でもって表現されたりする事もあってそれから 「無記」という沈