このお寺では境内で 月に一回仏の教えを説く講座を開いています平成元年 42歳の時貫首に就任しました特に禅宗辺りでは 経典と同じように それをテキストにして「菜根譚」に記された言葉が貴重な人生訓の語録として今日まで読み継がれ今も 毎年のように解説本が出されています。 それから 好都合 不都合も 永遠に好都合 不都合じゃないでしょう?今 現在 今日ただいまの時点で自分が それを 好都合 不都合だと分けてるだけですよね。
だけど 何といいますか自分が思ってるような評価それを 頂戴できなかったらどうなるのか という事ですよね。 そういう状況の方が むしろ社会生活してたら 多いわけでしょう?何で評価してくれないのかというのがそれこそ 掃いて捨てるほどあるじゃないですか。 だから 善悪っていうのはいい悪いで 非常に線引きがしっかり してるんじゃなくて悪いと思ってても善の方向性がある という事でそういう意味では 私たちが日常で慣れてる考え方というのは人間とはこういうもんなんだ というそういう見方だと思うんですよね。
それから 私の仏教における立場というのは唯識という この興福寺に伝わった大乗仏教でございますんでだから こういう読み方をしなくちゃいけないんだというそういう縛りが ないんですよね。 例えば キリスト教の人がこの「菜根譚」を お読みになると仏教だけでしたら 何か 心の世界だけの 話になりますけど私たち 現実にこの自然の中にいるわけですし社会の中にいるわけですからその自然の中の人間社会の中の人間が一体 どう暮らしていけばいいのかという事ですから非常にバランスが よろしい。
それを 大乗仏教では4世紀 5世紀の段階からそういう意識できない無意識の世界が私と あなたでは見てる世界が違うわけですよね。 ですから 他の犬がおしっこした においだとかそういうものは 人間は分かりませんですけどだから 人間同士も結局は同じ事でねそれぞれの世界に いるわけです。 少し いろんな民族の人がいらっしゃるわけですけどその 違うというところから始める人間関係とだけど もともとは違うものだというところから出発してそういった 一人一人が違う世界を見ている 感じているという文章が あるんですね。
それから 私は仏教徒ですけどそういう心中 暗中のところの…何ていいますか 見てる人がいる。 だから 暗中ですよね心中というかそういうところをちゃんと コントロールしましょうと。 ただ ここ数年 例えば心の時代とかっていうでしょう?心の時代っていうのは 実は非常に古くから言われてまして大体 昭和40年代の中頃にはもう物は十分だ これからは心だ心の時代だ というふうな全然 何十年たっても 一向に心が豊かになんないんですよ。
興福寺は ご承知のように五重の塔も中世の建物なんですけど天平の雰囲気を十分に持っている。 今度 中金堂天平様式で造るわけでただ こういう形のあるものを造ってはい 終わりではなくてそこで唯識の教えというものを中金堂の建物の 出来上がっている様子を拝見するとますます 何か しみてくるものがありますね。