こころの時代~宗教・人生〜「人として生きる―慈雲尊者の仏法―」

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この番組のまとめ

空港にほど近い場所に禅の修行道場 明光寺があります現在5人の若い雲水たちがここに暮らして修行を続けていますこの日は 朝から晩まで集中的に座禅に取り組む座禅は 釈尊が悟りを得た修行の形を伝えるもので時代を超えて 仏法を求める僧侶たちが実践してきた慈雲尊者の仏法を探究してきました。

日常 私たちが話をする事についてのものが この四つとそれから 心の私たちの動きですがこれが三つで私たちは 「身三口四意三」とこういうふうに言い習わしております。 仏法としてはですねこれを やはりこの中身を 「大殺生」「小殺生」という事を言いまして人を… 殺人ですね という事と私たちが 動物 虫小さい虫に至るまでそういう生物に至るまでのものを含めますと 大殺生から小殺生と。

これも慈雲尊者はよく言われるんですが貪欲がある人は必ず 瞋恚がある。 ここには 「道理に則した見解をもつ」と言っていますがこの道理というものが一体 何なのかという事が今後 課題になりまして お話をさして頂きたいと思いますが慈雲尊者が言っておられるのはこの十善が いかに私たちの身近でありですね今であろうと 昔であろうと未来であろうとこの事は関係がない。 それから これを ずっと学んで実行する事によって最初に挙げました文にありましたが生死出離の問題があります。

ここに 「理」という言葉が出てきますが仏教を勉強していますといろんな言葉がたくさん出てきてここで 仏道の考える善悪が出てくるわけですね。 慈雲尊者は 「物あり理あり」という事を よく言われます。 これは とても大事な事で私たちは善悪というと事柄で分けてしまうんですが。 今 自分が ここにいるという事はその2500年の時間なんていうのは関係なく法によって今 生かされている生きているというそのところがお釈迦さんの指摘された大事なところでしょうか?そうなんですね。

「天地人」という言葉がありましてこれは 「三才」と言っております。 「天は天の理があり地は地の理があり人には人の理がある」という事ですがこれは 天地が出来上がりましてそして人間が生まれてきて天地のおかげをもって人間が生きておるわけですが最初に天地があって人間があるという考え方私 常識的な普通の考え方だと思いますがところが人間が天地の理を助けてそして 天地の働きを人が実現していくそうするとここにありますように「天地この人によって天地が 成立」成立していくという逆の言葉になります。

この 縁起と縁起の対する事なんですが例としまして 慈雲尊者はこういうふうに挙げてありますね。 宮沢賢治が詩に慈雲尊者の事を書いてるところがありますのでこれ 宮沢賢治の「不貪欲戒」という題名の詩なんです。 まあ 宮沢賢治というと「法華経」を読み込んでるという事で 有名なんですけれども。 その慈雲尊者の言葉もよく読んでいらっしゃったという事が分かるわけですね。

法性のままに生きるところによって人生の楽しみというものがあるものだという事を慈雲尊者は説いておられます。 例えば先ほどの 天地と人間との行いでありますが農業に たとえてみますと農業をやるには自然の理 そのものを…そのものの中にありながらものを生育していくという。

仏性とか法性の働きというものをそのままにやってるわけじゃなくて何かそこに一物あるという事ですよね。 これを よくご存じだと思います「スッタニパータ」というお釈迦様の非常に近い教えを書いたものの中にこういう事がございます。 で 戒律を捨てるというのは戒律を破ってもいいという事はありませんで今 尊者のお言葉にありましたようにこれに繋縛せられないようにする。 これは 聞思修という事をよく言いますのでまず聞いて知って それから思いよくそれを繰り返し自分の中で練るという事ですね。