新世代が解く!ニッポンのジレンマ「文化と効率性のジレンマ大研究@京大」

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この番組のまとめ

伝統と革新と日本の古い文化を受け継ぎつつ異色の研究者たちを前に社会学者 古市は?社会学的なアプローチに対して一つ言いたいのは概念としては面白いですけど結構あやふやなところがあると。 文系と理系っていうのを分けるという事自体 疑問に思う事と言語学って本当に誤解の多い分野で視聴者の方に言語学専攻の方おられるか分からないですけど言語学っていうのは 本当に理系思考がいる 理系の分野です。

柴田さん これ社会学と近いんじゃないですか?近い面…社会学の中でもそういうどんどん 知識が多元化していくその分化した知識の体系っていうのを 統一的に…それを唯一 束ねる視点を持つのが社会学だっていうふうに記号の数学的な議論の中から…システムの話から発生してそういう着想を得たらしいので論じる社会学者もいると思うんです。

僕たちが やろうとしてるのはそういう事ではなくて総合っていうのでも何となく似てるとかじゃなくて完全に数学的に厳密にかけるしかたで誰にも有無を言わせないようなしかたで 「これと これはこういう数学的に関連がある」っていう事を主張できるそういう事を可能にしてくれるような枠組みの一つが圏論っていうものなんです。

今言った厳密性というのはそういう相関関係のレベルの話でしかなくてそれは 僕の立場から言えば原理から何かを説明できるという事が本来の意味での厳密性 精密化イグザクトサイエンスと呼ばれるものの無限っていうのは本当に無限なのかとかそういうのを いろいろ読んでいてよく分かるんですけどももう一つ… え~ともう一つは 何でしたかね。 私の場合は言語のデータが すごく厳密で一つの語でさえ厳密でないと致命的な歴史的に本当に 比較言語学的にも間違いがあって例えば 話者の「あ」が少し狭い「あ」なのか少し広い「あ」なのか。

集まってくれた京都大学の学生関係者たちはこの時代に 何を思う?そもそも 最初のお話に 人間が言語を使って思考しているという事で言語が そもそもどれだけ厳密性を持ってるかっていうところに今の議論 かなり集約されるかな というのが私も言語学やってる立場からすると ちょっと疑問。 まあ 研究レベルでの求められる厳密性に加えて そういうふだんでの 事務的な意味でもある種 厳密性が求められててどんどん非効率的になっていくっていう… なるほど。

例えば 工学の人たちの書いてる論文の中の数学的な定理とか引用されてますけどそれが間違ってる事って非常に よくあるんですね。 ただ 工学の世界とかでは最終的に その数学的な部分が間違ってても最終的に 実際に使えればいいってところがあるので実際に使える限りは 問題はなかったりするわけですけど多くの場合には。 京都大学の2回生で 工学をやってます 藏原といいます。 まあ ちょっと これ冷蔵庫だと思って下さい。 冷蔵庫だと思います。 冷蔵庫だと思いますね。

逆に 素数物差し人間が主体であるっていうか長さ測る事の面白さを思い出させてくれるっていうかそういう事が すごい面白いなというふうに思ったんですけど。 これは 私が今やっているエスノマセマティックスとか フィールドワークで文字のない社会で西洋技術がない社会もしくは 日本も昔は そうだったんですけど何を基準に測っているかですけれどもまあ 結論からいうと 恐らく何もなかった時代は身体を基準… 長いとか。

その本の中で ザーッと これまでの人類の歴史の時間意識を社会学的な視点で分類するとまず 可逆的で質的な時間っていうのが一番古代といいますか古い時間意識であると。 もう一つ こっちにも 古代以降現れてきた時間意識があってこれが線分的時間という事で時間は不可逆的なんだけれども質的な違いがあると。 こういった時間意識のあとに最後 近代に現れてきたのが直線的時間意識って事でもう 昔から時間はあってそのあとも ずっと一様のスピードで進んでいくと。 なので直線的時間意識を前提とした概念だと思うんですね。

なので 多分 今の人にとってもこういう時間意識とかこういう時間意識っていうの体の中の どこかにあってで それがないかのようにここばかりで思考してしまうと人間の可能性をすごい失ってしまうしで人間が感動するところ幸福を感じたりするところもここだけじゃなくてこっちでも幸福を感じるところがありうると思うんですね。

西田幾多郎に関しては 丸山さんは何か思い入れとか…?西田幾多郎って非常にジレンマ的なものを気にしていたというか西田幾多郎は 主客合一って事を言うんですけどそれは 主体と客体っていうのは僕たちは ふだん区別していて机を見るであっても主体である僕が客体であるところの机を見るとか主体と客体の区別というのはあたかも当然のようにあるわけですけどそれは多分 デカルト的な人間論以降で精神と物質というのが区別されて それぞれが別のものにされる事によって一方が他方を認識すると。

ただ僕いつも ちょっと京都学派が話題になると気になるのがいつも西田幾多郎ばっかり出てくるんですけど京都学派には 他にも西谷啓治とか田辺 元とか他の人もいて最近では そこに国際的には西谷啓治という人が非常に注目されていて 西谷啓治は近代の超克の問題というのをニヒリズムの超克の問題だと捉えたんですね。

京都学派の皆さんは 昔にも効率性の追求の限界みたいなものを提唱してたわけですよね?そうそう 近代の超克っていう事の背景にあるのは近代主義… 近代性というものが既に限界に達していてそれを乗り越えていくためにはどうすればいいかって事なんです。