この日 招かれたのは山形にある基督教独立学園高校前校長の安積力也さん。 安積さんは これまで新潟 東京 山形のキリスト教主義の中学 高校雪深い山里にある小さな学校でした。 安積先生は 大学出られましてで それから 2015年の3月に定年になってそれまで それこそ40年以上も高校生中学生…まあ 日本の若い青少年子女を対象に教育に 携わっていらっしゃったわけですがそれから しばらく日時がたったわけですけれども現在 そういう教える現場を離れてその後 いわば どういう事をお考えでございましょう。
で たまたまですけどこの間 ある新聞の投書欄を見てましたらね東京の大学の大学生二十歳の大学生が投書をしてるのが載ってて。 それは要するに今の我々 大人の世代それは 政治家 含めていろんな立場の者たちが結局 本来は自分が引き負わなきゃいけない自分たちが引き負わなきゃいけない課題とか重荷未解決問題を 全部 次の世代に渡してるんだっていうそういう内容を書いたうえでですねこういうふうに言ってるんです。
それは ちょっと今のところの言葉で今は 自分は捉えてますが一つは やっぱり 我々人間が人間の意思と欲望も含めてで 作り出す現実です。 まあ 多分 都会で育った人間の反動なんでしょうけども私の知ってる英語で言うならばですね「margin」っていう言葉が非常に 的確に当たる。 ところが 辺境っていう言葉に近い言葉で英語で もう一つこれは 日本語にもなってる「frontier」っていう言葉がありますね。
器は ヒビぐらい入りますけどね壊れないっていうのをその時に 本当に 大学時代に「聖書」の真理に捉えられて存在を委ねて 赦されて生きる世界っていうのを知った事が本当 恵みで 「祈りの世界」って言ってもいいんですがそういうところに立った時にもう駄目だって 逃げようって何か 不思議としか言えない思いがけない出来事が一つ 思い出す例で申し上げれば独立学園で あそこは日本の豪雪地帯の一つでしてね除雪作業しかないわけですし夕方も除雪をしないと。
でね 彼ね そういう表現使った事ないわけですから学園 来てからむしろ反発してましたから。 そういう自分の言葉に逆に驚いたのかな。 そういう状況ある事は みんな学園生 よく分かってますから本当に そこは当然のように受け止めながらの雰囲気でしたけれどもね。 ましてや 私のところに来て何か言葉で伝えようという事はまず なかった子なんですがねこれもね 夕食の夕礼拝終わったあとですよ。 で 3年になった初め4月に最初に回ってきた礼拝でそんな自分が悔しい」。 一生 出会う事はないと自分の中で決めつけていたからです」。
今のお話を伺ってますと本当の祈りというのはそういう人間のギリギリのところを超えたところで出てくる自然に出てくるしかも 言葉にならないような自分の気持ちを分からない相手に伝える。 で 週1回 1時間 1年間あるようなところの問いをぶつけて自らの応答を求めてそれを追求するための いくつかの人間の知恵といいますかもちろん 心理学 含めて哲学 精神医学含めてそういう視点を出していく事で応答し合いながらやる授業というのを模索的に探究して。
私 課題出すの好きじゃない教師でなるべく出さないんですが「今回はね 全員 できれば本気になってやってほしい」って訴えて出したんです。 3番目の課題は「絞り込んだものこの おそれから 特におそれる必要はないと思うのにそのために今の自分に足りないものは何か逆に 必要なものは何か。 それでね この課題はねいわば ほんとは独立学園の生徒でも避けたかった子が多かっただろうと思うんですがね図星だったようなんです。
その秋は 各学年ごとに1泊2日で来られてそれこそ一族郎党で来られたりして本当に にぎやかな楽しい保護者会なんですが。 「もしかしたら 私たちは親も それから 我々 教師もです為政者もです本来ならば 自分が引き負わなければいけない自分自身の おそれや不安を我が子や弱い立場の者に引き負わせていませんか」という問いを ぶつけたんです。